鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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(2)三尊像と仁寿殿観音供本尊仁寿殿観音供(二間観音供)本尊と共通する特殊なものであること、②梵天・帝釈天の像容が、京都・東寺講堂の同像を立像に翻案したものであること、の2点である。また、従来後補と見なされてきた三尊像の金銅製荘厳具を、造像当初の作として再評価する見方が近年になって提示され(注5)、筆者はこの指摘を受けて、これらの像本体との一具性の確認、および個々の意匠形式の分析を試みた(注6)。そこでは三尊像の評価に関わる様々な要素が確認されたが、とりたてて注目されたのは聖観音の光背であった。同光背は、鎌倉期にあっては類例の少ない飛鳥期の形式(以下、飛鳥式)を取り入れたもので、その特殊な仕様は三尊像の造像理念に深く関わっている可能性がある。以上のように、三尊像には特徴的な造形が認められ、その意義を改めて問い直してみる必要があるかと思われる。以下、この問題について、三尊像の造形を「鎌倉幕府と王権」という観点から読み解く試みを示してみたい。仁寿殿観音供(以下、観音供)は、毎月18日、天皇御持仏の観音像を本尊として、天皇護持のため真言僧が奉仕する仏事である。一時的に宮中清涼殿の「二間」で実施されたことなどから、「二間観音供」と呼ばれることもある。観音供については、平安期以来、様々な言説が繰り広げられ、その複雑さゆえに実態を捉えるのが困難とされた。しかし近年の研究で関連史料の整理・分析が進み、その歴史的変遷が明らかになってきている(注7)。それによると、観音供は元来、天皇の私的仏事であったが、11世紀以降の天皇御在所の頻繁な移動に伴って、御持仏が次第に同供に奉仕していた真言僧の管理下に置かれるようになり、公的な意味合いをもつ仏事へと展開していった様子が辿られる。その背景として注目されているのは、当時の天皇権威のあり方に変化が生じ始めていたことである。すなわち、天皇の個人的身体と政治的な地位が分離し、天皇権威が抽象化されるという動きの中で、御持仏は天皇の地位に付属する象徴的な「御本尊」として認識されるようになったという。また、12世紀以降には、天皇の仏教的位置づけに関する言説が真言僧を中心に活発となり、観音供本尊にも少なからぬ影響を与えたことがわかっている(注8)。その一例として挙げられるのが、東密醍醐流の定賢(1024~1100)の説である。定賢の資・勝覚(1057~1129)が記した『伝受記』によると、観音供本尊の聖観音が如意輪観音と同体であり、さらに「如意輪=宝珠=日輪」の連想から、観音供本尊と天照大神(内侍所)は同体であると説く。この定賢の説は、後代の亮禅『白宝口鈔』巻第― 246 ―

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