鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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(3)三尊像と東寺講堂諸尊像五十四「聖観音法下」十八日観音供条や、真慶『御遺告七箇法』のベースにもなっており、東密における影響力がうかがい知れる。一方、直接観音供に関与しない天台方でも、同供は関心の対象であったようで、光宗の『渓嵐拾葉集』巻第四や、尊舜の『二帖抄見聞』に関連する言説が掲載される。すなわち前者では、「観音供本尊=如意輪観音=天照大神」という理論が展開され、また後者では円仁・円珍・慈円の説を紹介し、うち円仁・円珍説は、本尊を十一面観音としながらも天照大神との同体説をとるとする。一方、慈円(1155~1225)の説は、観音供本尊には如意輪観音こそがふさわしいとするもので、その著作『法華別帖』に示される自身の天皇観を反映した内容であることが明らかにされている(注8)。このように、観音供本尊と天皇権威を結びつける思想は、東密・台密の枠を越えて一定の広がりを見せていた。観音供本尊の構成をとる瀧山寺三尊像の造像理念を考える上でも、まずこうした事情との関係が基本に据えられるべきであろう。三尊像の造形を読み解く視点として「王権」を提示した所以はここにある。次に、三尊像の脇侍である梵天・帝釈天に目を移そう。梵天は4面6臂で条帛・裳をまとい、帝釈天は搾袖衣・ 襠衣の上に着甲する姿になる。これは、京都・東寺講堂の梵天・帝釈天像をまさに立像に翻案したといえるもので、作者運慶が、建久8年(1197)~9年に東寺講堂諸像の修理を手掛けたこととの関連が指摘されている(注9)。東寺講堂は、弘仁14年(823)、空海が嵯峨天皇から同寺を賜って後、真言密教の根本道場として整備した。堂内諸像は、完成こそ空海没後まで遅れたが、その構想には空海が主体的に関与し、真言密教の理念が彫像によって現出された場となっている。建久時の東寺再興は、頼朝と親交をもった僧・文覚の発願で行われた。また、東寺と並んでわが国における真言密教創始ゆかりの地である京都・神護寺の修造も、ほぼ時を同じくして進められている。ここでも運慶一門が再興造仏に腕を振るったが、そのうち講堂の大日如来・金剛薩埵・不動明王の各像は、東寺講堂像を模刻したものであったという(『神護寺略記』)。この東寺講堂像の模刻の意義は、再生神護寺に真言密教の本質を明確な形で伴わせることにこそあったと思われる。瀧山寺の梵天・帝釈天の像容に東寺講堂像のそれが取り入れられたのも、単に運慶が修理経験で得た造形上の知識によるのではなく、多分に宗教的な意図が働いてのことであっただろう。運慶自身、おそらくその意図を十分承知して、製作に臨んだと想― 247 ―

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