(4)三尊像における飛鳥式光背の採用をめぐって像される。その他、直接的な模倣関係にはないが、三尊像の像容には密教絵画、それも「弘法大師御筆様」の由緒をもつ作例との親近性もいくらか指摘できる。すなわち、聖観音の着衣が翻転する表現や台座蓮弁の形状は、京都・醍醐寺仁王経五方諸尊図や神護寺両界曼荼羅等に通じ、梵天・帝釈天の金銅製頭飾の意匠、台座形式の選択のあり方には、建久再建後の東寺灌頂院で使用された十二天屏風からの影響が見て取れる。三尊像が安置された惣持禅院が、両界曼荼羅と真言八祖像の掛け並べられた空間であったことも注目される(『縁起』)。これは天長元年(824)建立の高雄山寺(=神護寺)真言堂や、承和10年(843)建立になる東寺灌頂院の荘厳に通じ(注10)、密教における重要儀礼「灌頂」の道場の設えがここに展開されている。天皇の即位儀礼にも関わる灌頂を想起させる空間は、先にみた観音供本尊との関係を踏まえると、王権を象徴するかのように映る。梵天・帝釈天はじめ、三尊像に空海ゆかりの密教図像の要素が取り入れられたことは、こうした空間演出と密接に関係しているのではないか。聖観音の光背〔図2〕については、飛鳥式が取り入れられていることが指摘される。すなわち、宝珠形の外形で、中心の蓮華から同心円状に配された圏帯に輻状文を取り入れ、かつ下方の圏帯の幅を上方に比して狭めるのは、法隆寺献納宝物の金銅光背など7世紀の作に類例が求められる(注11)。これについて筆者は、三尊像が製作された鎌倉期にあって飛鳥式の採用は特殊な事例(飛鳥彫刻の模造や、飛鳥期の事象への意識が造像契機となった作例など)に限られることを確認し、聖観音の場合も同様の事情が介在している可能性を指摘した(注12)。筆者は、ここでの飛鳥期の事象への意識とは、四天王寺本尊である救世観音像を媒介させた聖徳太子に関わるものではなかったかと考えている。太子信仰は、平安中期より高まりを見せ、法隆寺、四天王寺、広隆寺等、太子ゆかりの寺院では、太子没後500年の節目の年を中心に堂宇の修造や造像等が行われている。特に四天王寺は、浄土信仰や熊野信仰との関わりの中で、鳥羽院はじめ中央貴顕の参詣が頻繁に行われ(注13)、太子信仰の聖地として盛観を呈した。こうした太子信仰の流れの中で、三尊像との関連で筆者が注目するのは、理想的な宗教政策の担い手としての太子イメージが、当時の権門寺院の中で醸成されていたことである。平氏政権期を通じて既得権益を脅かされていた権門寺院は、新しい為政者に対し、その回復を求める理屈として、太子の宗教政策を引き合いに出すことがあっ― 248 ―
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