(5)三尊像造立の背景た。王法仏法相依の関係をベースに、「逆臣」平氏を物部守屋に、その立て直しを図る為政者を守屋討伐者たる太子になぞらえる、という理論である。その一例としては、『吾妻鏡』元暦元年(1184)11月23日条所載の、園城寺が頼朝に対して平氏に没収されていた寺領を寄進する旨を陳情した書状などが挙げられる(注14)。また、山門の四天王法に関する『阿婆縛抄』巻第138には、後白河院を太子の後身と見なし、現在のこの乱世を太子と守屋の合戦に類比させる表現が見られる。こうした発想は、山門の中でも青蓮院門跡に関わりのある人々の中で育まれた可能性が指摘されており、院自身にも同類の考え方が存したことも確認されている(注14)。三尊像のうち聖観音は、『縁起』によれば、頼朝等身に作られ像内にその鬢髪と歯を納入する。この仕様は聖観音が頼朝自身に見立てられていることを示すものであろう(注15)。瀧山寺は、平氏政権の時代、寺の文書や梵鐘が失われるなど、相当な損失を被ったようで、また寺との関わりの深い熱田大宮司家の所職も、平氏に一時期奪われていた可能性も指摘される(注16)。こうした事情に鑑みれば、熱田大宮司家と姻戚関係にあり、同家に極めて親和的であった頼朝に対して、先の園城寺の場合と同様の発想が瀧山寺周辺に存したとしても不思議ではない。また、いま1つ、後白河院を太子後身と見なす発想については、いずれも天皇直系で実質的な為政者である点において、王権との関連も無視できない。ここでは、理想の宗教政策の担い手としての太子、そして王権と繋がる存在としての太子という両イメージが重ね合わされている可能性も考慮される。以上、三尊像の造形表現を、観音供本尊を起点に「王権」との関係を主軸に据えて探ってきた。では、三尊像においてこうした表現が指向された背景とはどのようなものだったか。この点について少し考えてみることにしたい。三尊像が製作された頃、作者運慶は、治承4年(1180)の平氏による南都焼き討ちで焼失した東大寺の再興造仏を終え、東寺や神護寺での造像、高野山の八大童子造像、そして幕府関連では足利義兼の発願による造像(栃木・光得寺大日如来坐像、真如苑大日如来坐像)に携わっていた。中でも、建久年間に行われた東大寺再興事業は、仏法再生を象徴する一大イベントであった。この東大寺復興は、始め、後白河院の主導のもと進められたが、建久3年(1192)の院崩御後には鎌倉幕府の支援が本格化する。建久6年の大仏殿供養には、頼朝と妻の政子、嫡男の頼家らが数万の軍兵を率いて臨席し、東大寺復興を支えた幕府の存在― 249 ―
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