2 瀧山寺十一面観音像の金銅製荘厳具をめぐって感を広く知らしめた(注17)。王法・仏法が密接な依存関係にあったこの時代、仏法の再生を象徴する東大寺復興事業での存在感を示すことは、鎌倉幕府にとって政治的にも極めて重要な意義をもったと思われる(注18)。ここで注意したいのが、ちょうどこの東大寺復興事業を境に、幕府関係の造像において大日如来の作例が多く見られるようになることである。すなわち、先にも触れた光得寺像や真如苑像などがその代表で、滋賀・石山寺多宝塔像や、やや時期が降るが静岡・修善寺像などもこれに加えられよう。特に光得寺像については、荘厳も含めて東寺講堂本尊の形式を範とし(注19)、かつ像内に願主義兼の歯が納入される点も合わせ、瀧山寺三尊像と親近性を有することは注目される。像主こそ違えども、建久年間以降の幕府による大日造像と瀧山寺三尊像との間には、通底するコンセプトがあるのではないか。これを考えるに当たり、再び東大寺復興事業に話を戻したい。同事業で象徴的な位置にあったのは大仏の再興であったが、この際には奈良時代創建時の旧規に倣うばかりでなく、宋の石工に作らせた四天王や獅子を木造の四天王像と並置させるなど、新たな要素も加えられた。ここで注目したいのは、大仏の両脇に設置された「両界堂」の存在である。同堂は、中に両界曼荼羅と真言八祖の御影を掛けたもので、この荘厳は先に見たように神護寺真言堂や東寺灌頂院に淵源する密教空間そのものである。これは大仏(=毘盧舎那仏)を大日如来と見なす密教的な解釈に基づく敷設に他ならない。東大寺再興前後の時期から見られだす幕府関連の大日造像の背景には、あるいはこうした大仏をめぐる事情が作用している可能性は考えられないだろうか。また、当時、東大寺周辺でも認識されていた「大日如来=天照大神」説(注20)とともに、先の「観音供本尊=天照大神」説を勘案すれば、瀧山寺三尊像との繋がりも見えてくる(注21)。一連の幕府関連の大日造像、そして瀧山寺三尊像の造像を理念の次元で支えたものとして、王法・仏法の象徴たる大仏の再興事業で大きな役割を果たした鎌倉幕府の、また新たな立場が投影されている事情を想定してみたい。十一面観音像〔図3〕は瀧山寺観音堂の本尊で、近年、愛知県史編纂事業において本格調査が実施され、その成果が『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』に掲載されている(注22)。それによると、特に面貌表現において、仏師・快慶の無位時代(1189年以前~1203年)の作との近似を示しつつも、髻の髪束を巴形に表す形式が快慶作品には見られない点を考慮して、12世紀末~13世紀初頭の、快慶と活動時期・範囲の重― 250 ―
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