注⑴小林吉光「史料紹介『瀧山寺縁起』」 『岡崎市史研究』創刊号、1979年⑵山岸公基「十一面観音菩薩立像」 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』愛知県、2013年⑶小山正文「滝山寺と運慶・湛慶」 『史迹と美術』495、1979年なる別の力量ある仏師の作との見方が提示されている。また、同解説において、頭上面がいずれも後補で、しかもそれらの配置が髪束や毛筋の形と整合しないこと、十一面観音にしては髻が太く高いことから、本来は鎌倉時代の南都を中心に盛行した図像に基づく弥勒菩薩像であった可能性も指摘されている。このことは、本像の作者や製作背景を考える上に重要な視点を提供している。ところで、同解説では像本体の形状・品質構造とともに、表面にのこる各部の截金・彩色文様についても詳述されている。一方、同じく保存良好な金銅製荘厳具については簡潔な記述にとどめられる。12世紀後半から13世紀中頃にかけての鎌倉時代前・中期の作例では、作者系統と金銅製荘厳具の意匠形式に一定の対応関係が見られることがわかっており(注23)、本像の評価にもこれら荘厳具の分析はある程度有効であると予測する。その全容は、〔図4~9〕にまとめたとおりである。さて、これらを通覧して特に注目されたのは、胸飾から下がる瓔珞に実に14種もの飾金具が使用されていることである。当期のほとんどの作例が、葉と蕨手を象った飾金具を主な構成要素とするのに比べると、その多彩さは際立っている。しかしそうした中にあって、13世紀前半の作と目される東京国立博物館菩薩立像の瓔珞は、本像同様、瓔珞に多彩な形状の飾金具を含み、〔図9〕の②・③・④・⑧・⑫・⑭と同一ないし類似の形式のものが見いだせる。また臂釧についても、菊座の上方に如意頭形の蕨手と側面形の蓮華を、下方に3連の垂飾を配す意匠は、東博像のそれを簡略化させたものともいえる。その他これに類する臂釧としては、奈良・洞泉寺阿弥陀三尊像脇侍や同・東大寺戒壇院千手堂千手観音立像等のものが挙げられ、いずれも13世紀の南都仏師の作と見られるのは、南都との関わりが想定される本像の作者系統を考える上でも示唆的である。今後、彩色文様も含め、分析を進めることで、本像の位置づけがより明瞭となることが期待される。同「再び滝山寺の運慶作品について」 『同』516、1981年松島健「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」 『美術史』112、1982年⑷注⑶に同じ⑸山岸公基「滝山寺の彫刻─平安時代後期~鎌倉時代」 『天台のほとけ~その美術と三河の歴史~』 岡崎市美術博物館、2003年⑹拙稿「愛知・瀧山寺聖観音・梵天・帝釈天像の付属荘厳具─荘厳形式も踏まえた三尊像の理― 251 ―
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