鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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3.「自然庭園」(Naturgarten)と多年草栽培家・造園植栽家カール・フェルスターカール・フェルスターは、フンボルトは無論のこと、ヘッケルとの直接的な交流の接点も有してはいない。しかし、その出自に関わる特異な家庭環境ゆえに、独自の植物学的・造園学的思索の根幹に、フンボルトの自然誌的世界観からヘッケルの生態学的環境論へと至る伝統を明らかに受け継いでいる。いる(注10)。「景相生態地理学」的視座においては、こうした他研究分野における展開を踏まえつつ、とりわけ上述の「相貌」問題を基礎づける「景観」(Landschaft)の理解(=Physiognomik der Landschaft)(注11)、さらにその「景観」を規定する「植生」が一つの重要な指標である「植物地理学」(Pflanzen-Geographie)の重要性、またヘッケルが提唱した「生態学」(Ökologie)や、既存概念としての「生態地理学」(Ökogeographie=Ökologische Geographie)、これらを交差的に含意する。こう指摘し得るのは、両者を結ぶ重要な役割を果たした人物、ほかでもないカールの父ヴィルヘルム・フェルスター(Wilhelm Foerster, 1832-1921)の存在ゆえだ。ヴィルヘルム・フェルスターは、近代天文学が近世以来のいわゆる位置天文学から天体物理学的天文学へと転回する19世紀半ばから20世紀初頭に、ほかならぬこの天文学的転回を主導した著名なドイツの天文学者である。1855年に王立ベルリン天文台(設計:カール・フリードリヒ・シンケル)の第二助手に就任した後、1865年に同天文台長となり、1903年までその職責にあった(注12)。そして実はこの間に、アレクサンダー・フォン・フンボルトと直接交流した事実が知られている。ヴィルヘルム自身による手記に基づくなら(注13)、王立天文台助手に着任する1855年と、さらにその4年後の1859年に、最晩年のフンボルトから要請され、直にこの自然誌学者・地理学者と面会し、複数回にわたり天文学を講じているのである。ちょうどその当時、フンボルトは自らが基礎づけた自然地理学、地球物理学、植物地理学、地質学、地学に従って壮大な自然観を記述する大著『コスモス』(全5巻、1845-1862年、シュトゥットガルト)を刊行中であった。1855年に実現した最初の面会については、ヴィルヘルム・フェルスター自らが「フンボルト訪問」と題する訪問記を記し、その中でフンボルトとの間で交わした具体的な問答を詳細に伝えている。同記はヴィルヘルムの没後、ほかでもない彼の次男であるカール・フェルスターによって世に発表されている(注14)〔図3〕。さらにヴィルヘルムは、1888年5月28日にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン・フンボルト大学)中央棟正面に設置されたフンボルト兄弟記念碑の除幕式に際して、その功績を讃える講演「アレクサンダー・フォン・フンボル― 259 ―

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