ト」をベルリン市庁舎において行ってもいる(注15)。カール・フェルスターが、フンボルトに連なる自然誌的思想への共感と伝統を、父ヴィルヘルムから受け継いでいる事実は、以上からも明らかである。実際、申請者による彼の旧蔵書目録調査によれば(注16)、カール・フェルスターがアレクサンダー・フォン・フンボルトの著作を少なくとも12冊所蔵していた事実が確認される。その中には、1806年1月30日にベルリンのプロイセン科学アカデミーで行われた講演「植物相貌学考」に基づく論考を所収する『自然の眺望』(初版1808年。フェルスター所蔵本は『アレクサンダー・フォン・フンボルト全集』第11-12巻)、また『コスモス』初版全5巻のうち第1巻から第4巻が含まれている。さらに、生涯に39タイトルに上る植物学・園芸学関係の著書を残したカール・フェルスターの著述の随所には、「植生」に対する本質的な関心を読みとることができる(注17)。彼は生涯一貫して、近代西洋の庭に植栽された、あるいは自然環境に自生する外来植物が、本来、地球上のどの地域に由来しているのか、それらを育んだ気候や土壌の問題を含め、地球上の植物分布に関心を寄せ、植物を観察し続けていたのである。たとえば、最晩年のエッセイ「庭園の片隅、地球、世界史」(1968年)中の一文に目を向けてみよう。「世界地図上には、庭の片隅に植栽された植物が由来する地球儀上のはるか遠く離れた彼方へと、実に多くの線を引くことができる」─この発言には、そうした彼の植生に対する眼差しがはっきりと現れている(注18)。さらに同じエッセイには、ダリアの由来に関連して、この多年生草木植物が「アレクサンダー・フォン・フンボルトによって[南米の]原野で発見され」、「1803年にフンボルトがダリアの種子をベルリンとパリの植物園へ送付した。そこから大多数が、秋になると目を見張るほどの花を次々に咲かせ、地球の両側で人々を突き動かし、展覧会には群衆が押し寄せ、何百万人という庭園好きの興味をかき立てている」との記述も見出される(注19)。そして、フェルスターにおける植生へのこうした根本的な関心と理解は、ややかたちを変えて、自身の園芸農園から出荷され、地球上のきわめて広範な地域に根をおろした植物を示す自作の世界分布図にも明確に現れている(注20)〔図4〕。我々にとって重要なのは、フェルスターのこうした関心が、実は、19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパ庭園が様式変化として経験する自然観と密接に結びついている事実だ。すなわち、フェルスターが植物を栽培し造園活動を開始する20世紀初頭に、庭園は、それまで主流であった風景庭園に設置されたいわゆる「毛氈花壇」(Teppichbeete)や、邸宅や住宅など基本的に狭小な空間に大規模な風景を模倣する庭園様式、いわゆる「後期風景庭園」(spätlandschaftlicher Garten)を否定し、むしろ、― 260 ―
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