4.植物と建築の媒介者としてのカール・フェルスター─結びにかえてより自然で原生的な庭園への転換を経験する。フェルスター自身の発言にも前者への明確な批判が確認される通り(注21)、彼はより自然な状態を志向する庭園、いわゆる「自然庭園」(Naturgarten)を支持し、20世紀初頭にこれを押し進めた重要な人物にほかならないのである。実際、イタリア、ボルディゲーラの造園家ルートヴィヒ・ヴィンター(Ludwig Winter, 1846-1912)の元での修業時代には、ヤシや地中海性気候で育つ植物がそれら本来の植生に従ってグルーピングされ植栽された庭に触れ、自然庭園の具体的な手本を学び取っている(注22)。さて、近代庭園史における「自然庭園」とは、すなわち、生態学的(ökologisch)・植物群生学的(pflanzensoziologisch)な意味における「自然法則」(Naturgesetze)を重視し、デザインされる庭園にほかならない(注23)。したがってこの取り組みの根幹に、すでに見たフンボルトからヘッケルへと展開する自然誌的・生物学的思想と密接に連続する思索と実践を読みとり得ることは、すでにあらためて強調するまでもないだろう。ミース・ファン・デル・ローエの処女作《リール邸》(1908-1909年)の造園にカール・フェルスターが従事した事実については、先行研究においても、また筆者自身のアーカイヴ資料調査によっても、両者の具体的な交渉を実証する一次資料は今日までのところ確認されてはいない(注24)。そのため従来の美術史学・建築史学の研究は、カール・フェルスターの最初の著作『現代の耐寒性花多年草および灌木。庭園愛好家と園芸家のためのハンドブック』(1911年)〔図5〕に掲載された、著者自身の撮影によると考えられる《リール邸》写真と、竣工当時に発行された建築雑誌、また、単行書掲載写真を根拠として、その関与を指摘してきた(注25)。その反面、美術史学・建築史学の先行研究が注目するのは、いわばそれらの写真が記録として示す、フェルスターが《リール邸》の造園に関与したという事実のみであって、『現代の耐寒性花多年草および灌木』の図版キャプションや本文におけるフェルスター自身の発言および重要な情報の指摘については、等閑視してきた。筆者は、この状況を批判的に反省し、本研究の関心に即して以下の3点を指摘したい。第一に、《リール邸》の写真を掲載する『現代の耐寒性花多年草および灌木』に序文を寄せる植栽建築家ヴィリー・ランゲ(Willy Lange, 1864-1941)こそ、先述した「自然庭園」のドイツにおける普及に、建築家の立場から尽力した第一人者にほかならないこと。第二に、フェルスターは植物を庭園に植栽した後も、それら植物の生長― 261 ―
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