響がみられることから、本稿では、神学的意味だけではなく、人文主義者の聖母信仰についても具体的にたどり、本作品の風景描写が聖母崇敬と関連してどのような意味と思想的背景をもっていたのかについて考察したい。1 無原罪の御宿りアルトドルファーの《エジプト逃避》が描かれた当時、聖母はどのように崇敬されていたのだろうか。ここでは1500年頃の神学を取り巻く状況と、それに関連する神学者や人文主義者の立場について言及する。つぎに聖母の無原罪性をめぐる神学者による論争とそれに対する人文主義者の立場について概観したい。当時のドイツでは、中世以降のスコラ哲学による神学の理解が抱える、抽象性という問題を解決するために、神学者や人文主義者によって、新しい信仰態度が模索されていた(注5)。神学者の立場からは、トマス・ア・ケンピスが『キリストにならいて(Imitatio Christi)』で説いたような、霊的生活の実践が奨励された。その際、キリスト伝や聖母伝が多く読まれ、キリストの受難や聖母の悲しみに共感することが正しい信仰につながるとされた(注6)。またキリスト教における道徳教育が導入されたのもこの時期であったが、聖家族や聖人の生涯が、家族や信仰の模範として解され、彼らの生き方を真似ることがキリスト教的美徳につながると考えられた(注7)。またスコラ哲学による聖書解釈に対して批判的な態度をとっていたドイツの人文主義者たちは、異教的なモチーフを用いてキリスト教解釈を試みた。彼らは、古代の異教の神々から、キリスト教の美徳の概念など正しい信仰を学ぶことができるとして、古代文献を研究した(注8)。たとえばヤーコプ・ロッヒャーは、ドイツ人文主義の第一人者コンラート・ツェルティスが主張したような新プラトン主義的思想を「隠れたる神」の思想だとして評価し、新たな神学解釈の誕生であると称賛している(注9)。ロッヒャーはスコラ哲学を専門的で知性偏重の理解が困難なものとして批判し、神学は信仰の必要に応えねばならず、宗教心を高揚させ、その美しさが信者に理解されなければならないとした(注10)。詩はロッヒャーにとって神学の要求に応える美学的なものと捉えられ、神の言葉は美しく崇高な啓示であるが、可視化されなければならないと考えられたのである(注11)。このように神学者や人文主義者の解釈によって信仰のあり方が模索される中、1449年のバーゼル公会議で聖母の無原罪性について言及されたが、この声明は非公式なものであった(注12)。1480年から1500年には、歴代の司教により、無原罪性を擁護する声明が出されたように、聖母信仰が高まる中、1490年頃のドイツではこの考えを― 268 ―
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