鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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のはキリストの受難であり、それはキリストの死によって終結する。1962年にウィレム・デ・クーニングとの二人展がアラン・ストーン画廊で開催され、14枚の絵に追加された15枚目の絵《存在せよⅡ》〔図9〕も出品された。当初、友人の彫刻家トニー・スミスはこの絵を「復活」と呼ぶことを提案し、アラン・ストーンもその提案に同意しパンフレットに「復活」と記載した。だが、ニューマンはそれに同意せず、絵画の題名を《存在せよⅡ》とした。トニー・スミスが連作の15枚目となる作品を「復活」と名付けようとした意図は明解である。キリストは14留の埋葬の後に「復活」するからだ。しかし、ニューマンはそれを斥けた。その真意を推測するには、《輝きわたる(ジョージへ)》の実践を踏まえるべきである。ニューマンは「十字架」連作において死した後に復活するキリストの物語の時系列=線的過程を描いたのではない。15枚目を「復活」と名付ければ、そのような時系列を追認することになってしまう。まったく逆に、《第一留》から《第四留》までで描かれた虚のジップが描き出す「無の現前」は、イエスの復活をすでに予告している。それは、死(埋葬)と生(復活)を分割する時系列を破壊し、両者を同時かつ一挙的に現象させるのである。ゆえに、「十字架の道行き」は、その身体の内に生と死が共存するイエス・キリストという神の子の受難の特異性と奇蹟を、主題として掲げるのみならず、その画面構造において具体的に実現する。ゆえに、生と死の分割を乗り越えるキリストの奇蹟は、観者に対する絵画の「一挙性」として与えられている。「十字架の道行き」のステートメントのなかでニューマンは言う。「それぞれの絵画は一挙に見られなければならない─視覚的衝撃は全面的で、直接的でなければならない(注7)」。全面的かつ直接的な「視覚的衝撃」とは、不在と現前、生と死の一挙性を観者が「目撃」することである。その一挙性の実現は、物質と現象の対立を乗り越えることと同一の水準において実践される。私は物質それ自身を真の色彩へとつくりかえなければならなかったのである─白い光として─黄色い光として─黒の光として、それが私の「問題」だったのだ。 作品中の白い閃光はカンヴァスの残りの部分と同じロウ・カンヴァスである。ある作品中に見える黄色い光はそれ以外の作品のカンヴァスと同じロウ・カンヴァスでできている(注8)。― 17 ―

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