2 1500年頃の聖母子像巡って議論が起こった(注13)。とりわけドイツでは無原罪派のフランシスコ会と原罪派のドミニコ会の修道士によって、聖母が存在の初めから原罪を免れていたのかどうかが盛んに議論された(注14)。たとえばヴュルツブルクの司教ヨハネス・トリテミウスのアンナ賛美文は、この時期の無原罪論争を念頭にうたわれた(注15)。フランシスコ会のトリテミウスとドミニコ会のヴィーガント・ヴィルトによる聖母の無原罪性についての論争は、この時期の対立を代表するものとして知られている(注16)。教会における改革、つまり霊的生活の奨励と、異教的な要素を取り入れようとした人文主義者の活動は、抽象的で難解な神学思想の具象化を目指したという点で、決して相反するものではなかった。このような状況の中で、聖母の無原罪性をめぐって論争が起きたのだが、聖母は受肉を通して無原罪のまま懐胎して神の母となったために、神と人間をより近づける特別な存在であるとみなされ、無原罪派の人文主義者によって聖母賛美文が多く詠まれたのである(注17)。その際、難解な神学思想を具体化する詩文や美術が、重要な役割を果たすこととなった。こうした聖母の無原罪論争が高まる中、1500年頃のドイツでは、聖母子像が一枚刷り版画や絵画でさまざまに描かれている。ここではトーマス・ノルの研究をもとに、この頃の聖母像が従来の伝統とは異なる特徴を有していたことを示し、それによってアルトドルファーの《エジプト逃避》のそれぞれのモチーフが描かれた図像的背景を明らかにしたい。ノルは当時の聖母子像の特徴を示す好例として、「芝生の腰掛けの聖母」を挙げている(注18)。この型は聖母の周りを塀や柵が囲む図像で、「閉ざされた庭」に由来するとされる。しかし「芝生の腰掛けの聖母」は、伝統とは異なる象徴物が描かれ、風景が詳細に描かれている点で、一枚刷り版画の聖母子像としてはドイツ特有の描写がみられる。たとえばデューラーの《梨の聖母子》(1511年)〔図2〕には、聖母子の背景に塀と柵が描かれているが、その一方で聖母は幼児キリストに梨を差し出しており、「閉ざされた庭」とは関係のないモチーフが描かれている。ノルは、作中のキリストの祝福の身振りは、聖母子への祈りの中で観者が神の恵みにあずかることを表すと指摘する(注19)。また当時のドイツの聖母子像では、風景が詳細に描写されている。とりわけアルトドルファーの聖母子像にはドイツ的な風景描写が観察できる。たとえば《祝福を授けるキリストと聖母》(1515年頃)〔図3〕には、構図からデューラーの《梨の聖母子》〔図― 269 ―
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