い例であったとみることができる。また、これほど聖母の象徴が多様な図とともに個別かつ詳細に説明された例は、管見の限り同祈祷書以前には見られない。さらにピンダー祈祷書では、信者の眼前に現れる地面に座る聖母子図〔図11〕が示されるが(注35)、この挿絵はMZのマイスターの《泉の聖母》〔図12〕と、聖母が鑑賞者の眼前に描かれている点や風景描写が類似している。また、信者の前に顕現する玉座の聖母子図〔図13〕もみられるが(注36)、これはアルトドルファーの《祈祷者の前に顕現する聖母》(1519/20年)〔図14〕と、聖母子と信者の立ち位置や構図において多くの共通点が見られる。このことから、当時ドイツで制作された聖母子像の一枚刷り版画は、同書の挿絵にあるように個人的な祈りの目的で受容されていた可能性が指摘できる。版画で制作されたこのタイプの聖母図像には、霊的生活の実践により神や聖母と親密な関係を持つことができると考えた、ドイツにおける信仰態度が反映されているのではないだろうか。ノルが指摘するように、ドイツでは実際に神を目にするのではなく、瞑想の時の「第三の目」で神を見ることが求められた(注37)。その際、キリスト伝や聖母伝に思いを馳せることで、神が信者にとってより近い存在と感じられるようになったのである。その際、ドイツにおいて具体的な聖母のモチーフが可視化された絵画や版画が多く描かれていたことも注目される。これらのことから、アルトドルファーの《エジプト逃避》に描かれた海や山、街並み、噴水には、当時の聖母の無原罪性を表す多様な象徴物の描写が反映されており、聖母子の一枚刷り版画と同様、瞑想の際のキリストや聖母への具体的なイメージを鑑賞者に提供したものだといえるのではないだろうか。また、ピンダー祈祷書の挿絵では、聖母の象徴である泉が、噴水や湧き水、井戸として何度も描かれているが、アルトドルファーの本作品においても、泉が聖母の無原罪性の象徴としてとりわけ強調されていることを指摘したい。次に人文主義者による聖母賛美について見たい。彼らは、ラテン語の古代の叙情詩の形式で詠った「歌集Carmina」のように、従来の伝統とは異なる方法で聖母を称えた(注38)。ドイツの人文主義者ツェルティスが1492年に聖母への祈りをささげた『インゴルシュタット大学での頌歌(Oratio in gymnasio in Ingelstadio publice recitata)』では、オウィディウスの作品の一節が引用され、聖母と異教の神々が対照して詠われている(注39)。本書のようなラテン語による聖母の賛美は、イタリアを範にしたものとして当時のドイツで散見されるが(注40)、それらの賛美文は、いくつかの点でドイツ独特の特徴をもつ。以下は同頌歌の「ドイツの支配地域の融和を求める天上の神の母への祈り」の一節である(注41)。― 272 ―
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