…神の母よ…ライン川のほとりにあるブドウが実をつける丘を守り、実りの多いケルトの耕牧地、美しく耕されたドナウ川のほとりにある峡谷を平和に導きたまえ!本作成立の背景には南ドイツのバイエルン公国の拡大政策があり、同地の領有権を巡って争いがあったことが反映されている(注42)。ツェルティスは当時の情勢不安を憂い、南ドイツが平和な状態へ戻ることを聖母に願った。この時期を代表する出来事として、南ドイツのレーゲンスブルクの領有をめぐる争いが挙げられる。レーゲンスブルクは、1485年からバイエルン公爵アルブレヒト4世の支配下にあったが、1491年の帝国議会を経て、神聖ローマ帝国の介入のもとに引き渡しが求められた(注43)。しかしアルブレヒト4世はそれを拒否し、1492年に沈静するまで、市民を巻き込んだ戦争は拡大していった(注44)。注目するべきは、聖母がドイツの具体的な風景と結びつけて詠われていることである。ピンダー祈祷書挿絵でみてきたように、岩山や海や空などの自然物は、ツェルティスの賛美文でも聖母の象徴として考えることができるだろう。とくにツェルティスの賛美文ではドイツの風景というものがドイツの一種のアイデンティティとしてとらえられ、聖母が保護し統治するという、聖母と関連したモチーフとして印象的に描写されているのである。このツェルティスの頌歌は、同時代のドイツの「エジプト逃避の休息」主題の作品や聖母子図の詳細な風景表現と何らかの関係があると見られないだろうか。それぞれの作品のサイズは比較的小規模なものであるため、教会や修道院などの公の場ではなく、デューラーの『聖母伝』や一枚刷り版画の聖母子図のような、私的な祈りのために制作されたものだと推測される。おわりに1500年頃の聖母は、聖母の無原罪論争を契機として盛んに崇敬されてきた。その際、神学者と人文主義者の双方の新たな信仰の創出という共通の目標からさまざまな試みがなされた。ピンダー祈祷書で見たように、当時のドイツでは従来の聖母の無原罪のエンブレムとは異なる、多様な象徴物が聖母の象徴として図像化されていた。また同祈祷書の挿絵にあったように、一枚刷り版画の聖母子図は、個人的な祈りの場で必要とされていたのである。さらにツェルティスの聖母への頌歌からは、ドイツの風景が聖母と結び― 273 ―
元のページ ../index.html#284