鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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「十字架の道行き」における「問題」とは、「物質それ自身」であるロウ・カンヴァスと「真の色彩」である光との対立を揚棄し、前者を後者につくりかえることである。おそらくニューマンはモノクロームとマスキング・テープの併用がそれをもっとも効果的に現象させることに気づいていた。マスキング・テープはフリーハンドでは不可能な切り立ったエッジをもたらし、そのクリアな境界は色彩上もっとも明度差の激しい白と黒のコントラストにあるとき、際立って視認される。その結果、剝き出しのロウ・カンヴァスの隙間が「白い閃光」で満たされるとすれば、ニューマンはここで《ワンメントⅠ》の出来事をもう一度復活させていることになる。「十字架の道行き」は、ニューマンの絵画の開始を告げた空虚/充満のパラドクスを再演するからである。「十字架の道行き」はさらに別の「パラドクス」にも関わっていた。ヘスとの対談でニューマンは言う。私はいつも次のパラドクスに打たれてきました。イエスは、彼を実際に迫害し、磔刑にした人々について、神に向かって言います。「彼らを赦してください。彼らは自分たちが何をしているのか分からないからです」と。けれども、イエスは自分の父と見なしている神に向かって、こう言うのです。「どうしてなのですか?」と。これは私にとって非常に奇妙なパラドクスです。この「十字架の道行き」という作品に従事しながら私は自分の絵画が叫びにまつわるその種の言明をつくりだしているのだと感じ始めました。ですので、それらを14枚つくることができたら、私はその叫びを何らかの仕方で指し示すであろう絵画の連作を得ることになるだろうと考えたのです(注9)。「十字架の道行き」連作は「なんぞ我を見捨てたもう」というイエスの「叫び」そのものを副題に掲げている。イエスは、人間への赦しを神に乞うと同時に、「なぜ」と絶叫し、神を糾弾する。「叫び」とは、この両立不可能な背反を封じ込める言葉ならぬ言葉である。神に対するイエスの態度は引き裂かれており、この二律背反を「なぜ」の絶叫のうちにかき消すそのふるまいはほとんど錯乱したものに見える。しかし、絵画は叫びそのものを描かなければならない。「私はただひとつのことに集中してきました。それこそ私にとり絵画が意味するものなのです。それは叫びです(注10)」。「叫び」のうちに縮約されるパラドクスは、絵画によってこそ示しうる。なぜなら、そのような言明は論理を超えた錯乱のうちにあるからだ。ゆえに、「叫び」と― 18 ―

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