㉖ 19世紀後半のフランスにおける装飾デッサンの絵画への影響研 究 者:国立新美術館 アソシエイトフェロー 横 山 由季子洞窟の壁に、石版に、一葉の紙に、線を引くという行為は、美術史的な流派を超えて、形あるものを写しとめ、あるいは新たに生み出したいという、人間の根源的な欲望を露呈させる。西欧においてあらゆる芸術の基礎とみなされてきたデッサンは、アカデミーの理念を支えるものであったが、近代以降、描くことそのものをめぐる問いへと、芸術家たちを導くことになる。とりわけデッサンについての議論がもっとも活発に交わされたのが、19世紀のフランスである。産業革命が進み、隣国の動向を睨みながら産業・装飾芸術振興運動が繰り広げられていた当時のフランスでは、それを担う人材の育成が性急に求められていた。現在もパリに門を構える装飾美術学校を中心に、フランス各地に存在した公立のデッサン学校や私設アトリエ、さらには中高等学校にまでその風潮は広まり、より質の高い芸術的価値を備えた工芸品の生産のために、技術力と独創性を養うデッサン教育の方法論が次々と考案された(注1)。植物の有機的な形態や幾何学を出発点に、新たなフォルムや文様を生み出すための試行錯誤が重ねられ、装飾デッサンが及ぼす影響は、やがて装飾芸術にとどまることなく、絵画や彫刻といった芸術全体にまで拡張される。芸術的なデッサンと産業のためのデッサンの境界が極めて希薄になっていく過程において、「デッサンとは何か」という根源的な問いに直面することになったのも、この時代にほかならない。本論では、19世紀後半のフランスにおけるデッサンや装飾をめぐる議論をふまえつつ、それがどのように芸術家たちの理論や絵画制作へとつながっていったかを考察する。デッサン教育改革─ラヴェッソンの「有機的デッサン」とギヨームの「幾何学デッサン」19世紀後半のフランスで美術行政を司る美術長官の座に就き、1876年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出されたシャルル・ブランは、1867年に出版された著書『デッサン諸芸術の文法』のなかで、デッサンを次のように定義している。デッサンという言葉には二つの意味がある。対象をデッサンすること、それは線描と明暗を用いて、その対象を表象することである。絵画や建築物、集まりをデッサンすること、それはデッサンのうちに描き手の考えを表すことである。したがって、我われの父が「dessein」と表記し、この知的な綴りが明確に示していたように、あらゆるデッサンは精神の構想なのである(注2)。― 280 ―
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