ミーの権威は、1863年、美術学校の管轄をアカデミーから切り離すために、政府主導で敢行された改革によって失墜することになる。そして1863年の改革の立案者の一人であった建築家ヴィオレ=ル=デュックも、独創性[originalité]の名のもとに、スケッチの美学を認め、記憶に基づくデッサン教授法を美術学校に取り入れることを推奨している(注18)。こうした時代にあって、画家ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1877年の第3回印象派展に際して発行された機関誌『印象主義者、芸術誌』に、「現代の装飾芸術」と題した記事を寄稿している(注19)。そのなかで彼が展開しているのは、芸術家は現代の建築にふさわしい、現代の装飾を生み出すべきという主張である。そして国立美術学校の体制を批判しつつ、ルノワールが重視するのもやはり「独創性」のための教育である。ルノワール自身も、パトロンの屋敷の装飾画などを手掛けているが、現代的な美学を、何よりもまず装飾の分野に持ち込もうとしていた事実は注目に値する。やがて「デッサン」の理論と実践は、絵画や彫刻といった大芸術と装飾美術との間のヒエラルキーを崩す要の役割を果たすようになる。実際に、装飾美術振興運動に携わる教授たちは、こぞってデッサン教授法の構築に取り組み、その内容をまとめた理論書を出版した。それらを紐解くと、シャルル・ブランやギヨームらアカデミー陣営による教授法を取り入れつつも、それと匹敵し得る理論体系を打ち立てようという気概がみてとれる。とりわけ注目すべきは、建築家であり装飾模様の理論家であったジュール・ブルゴワン(1838-1908)が1800年に出版した『装飾模様の基礎文法』である(注20)。200頁に及ぶこの大著は、「グラフィックの基礎と活用」「図形」「分割」「モティーフとその配置」という4つのセクションから成り、ブルゴワン自身の手によるデッサンが、言葉による解説とともにほぼ全頁に挿入されている〔図1〕。そこからは、単純な形態から複雑な文様へと至るプロセスを体系化しようという、ブルゴワンの執念が感じられる。こうした理論書の出版と並行して、19世紀の中頃から20世紀の初頭にかけて、装飾美術の雑誌や、数多くの装飾文様集が世に送り出された。とりわけ、オーウェン・ジョーンズが1856年にイギリスで出版し、1865年にフランス語に翻訳された『文様の文法』は、19世紀後半の文様集の流行を決定づけるものだった(注21)。そこには、ジョーンズによる装飾についての提言と共に、古今東西のあらゆる文様が収められている〔図2〕。この傾向は、1869年から1888年にかけて出版されたアルベール・ラシネの『多彩色文様』や、19世紀末から20世紀初頭にかけてアルマン・ゲリネが出版を手掛けた一連の文様集にも引き継がれた(注22)。そこに見出せるイスラムやエジプ― 284 ―
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