鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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して示される情動とは、引き裂かれた論理を暴力的に重ね合わせる一挙的な「視覚的衝撃」によって直接的に言明されるものなのだ。「十字架の道行き」において、その種の「叫び」は理念的な、机上のものではまったくない。絵画上に生じるネガ/ポジの絶え間ない現前と消滅は、その主題を物質的に暴露しているからである。「叫び」は「十字架の道行き」の全作品の物質的構造を貫いている。ニューマンの絵画における無の現前は、生と死のあいだ、あるいは人間と神のあいだで引き裂かれたイエス・キリストの存在論的な矛盾を、ジップという裂け目から放たれた閃光の否定的現前によって照らし出すのである。4.終わりにニューマンは、《輝きわたる(ジョージへ)》や「十字架の道行き」において、空虚─充満、生─死、非在─現前といった二項対立的で両立不可能な出来事を絵画的に現象させようとした。重要なことには、ニューマンがそれを視知覚的、物質的な効果として実現することを目論むのみならず、主題論的な観点から追究したことである。ニューマンは一貫して、同時代に批評的趨勢を誇ったクレメント・グリーンバーグに代表されるフォーマリズム(形式主義)に懐疑的であり、同時にピート・モンドリアンらの絵画をプラスティック(造形的)であると批判した。ニューマンは、絵画において真に重要なのは、形式や造形ではなく、悲劇、崇高、恐怖などの情動的な主題事象であると主張した。私たちがすでに見てきたように、ニューマンにおける空虚/充実のパラドクスとは、生と死という主題論的な事象に踏み込んでいるのである。ニューマンの絵画は、共存不可能なものを共存させるとともに、あらゆる区分を破壊しつつそれらを統合する一挙性をもたらす。ゆえに、ニューマンにおけるそれらのパラドクスの超克とは、絵画における「一挙性」ないし「同時性」の実現にほかならない。一挙性ないし同時性が与えるのは、観者にもたらされる無時間的な瞬間の経験である。その意味で、ニューマンの絵画は、無時間的な時間の厚み、すなわち瞬間性に関わることになるだろう。ニューマンは「Here」と題された彫刻、「Now」と題された絵画を複数制作した。「いま、ここ」はニューマンの鍵概念だった。しかしそれは、視知覚的にのみ指し示されるモダニズム的な「瞬間性」とは区別されなければならない。なぜなら、この「瞬間」「いま、ここ」のうちに両立不可能なものの区分が決壊し、あらゆるものがもたらされる絵画の同時性においては、過去から未来へと連続する時間の時系列が切断されるからだ。いわばそれは、非─時間の到来である。二項対立的で両立不可能な出来事は、時間と空間において同一平面上を占― 19 ―

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