鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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閥の関係者は、井上を中心とした政界・財界のネットワークを強化する会合を開くための表向きの名目として、雪舟展を考案したのではないかとも考えられる。というのも、雪舟展が行われた1906年頃は、益田孝が三井家の副顧問となって実権を握り、三井家顧問の井上が主導する、三井合名会社創立に向けた準備を始めとする三井家家政改革が行われていた時期だったからである(注21)。そうした中で、井上を中心とした人的ネットワークをまとめる口実として雪舟の回顧展は最適だったとも考えられるだろう。なぜなら雪舟は、長州藩を治めていた毛利家との関わりが深く、当時すでに、岡倉天心らが画聖だと称賛していた(注22)からである。高橋義雄が開催を提案(注23)したという「雪舟会」は、1906年の2つの雪舟展の人脈を統合し、継承した形となっている。つまり、東京美術学校、三井財閥の井上や高橋・三井八郎次郎、日本美術協会の下條正雄、旧藩主として黒田長成(日本美術協会議員)や毛利元昭らが作品を出品していた。また講演を行った今泉雄作(日本美術協会議員で、後に雪舟遺跡保存会のメンバーとなる)や帝室博物館の溝口禎次郎らは、以後の雪舟展にも関わることになる人物である。最後に「雪舟傑作展覧会」の人的ネットワークについてである。この展示は、正木直彦が実質的に主導する雪舟遺跡保存会(注24)が企画した展示であり、正木が常議員を務める日本美術協会に開催を申し入れて実現した(注25)。この企画には、これまでみてきた東京美術学校や東京帝室博物館、財界人、旧藩主らが関わっている。具体的には、東京美術学校校長の正木直彦が企画を進め、東京帝室博物館は「破墨山水図」を出品すると共に、博物館美術部長の溝口禎次郎が講演をしている。さらに東京帝国大学の伊東忠太は、雪舟の墓に関する講演を行った。また財界からの出品者として、井上馨や益田孝といった三井財閥関係者、帝国蚕糸社長・横浜興信銀行(現横浜銀行)頭取の原富太郎らがおり、旧藩主の出品者として益田兼施や蜂須賀正韶・黒田長成らがいた。つまり「雪舟傑作展覧会」が行われた1923年には、研究者や美術愛好家、財界人、旧藩主らによる雪舟評価のネットワークが構築され、機能していたといえるのではないかと考えられる。二 雪舟評価の大衆化─新聞社主催の展示企画「雪舟デー」「雪舟デー」は新聞記事によると(注26)、1930年に東京府美術館で開催された、第2回日本名宝展(読売新聞社主催)の評価を高めるための目玉として、企画・開催されたものだった。実際、展示は後述するように大盛況となり、「鑑賞者の心を躍らせて満都の人気を弥が上に沸騰させ」(注27)た。雪舟評価の拡大と大衆化をもたらす― 296 ―

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