前掲『報告二』12輯、3頁 「呼び物の『雪舟デー』」『読売新聞』1930年4月28日朝刊4面 『読売新聞』1930年4月29日朝刊11面 旧国宝に指定され雪舟流展に展示されていた「慧可断臂図」と「秋冬山水図」は、1920年頃には東京帝室博物館の平常展や特別展に出品され、ほぼ毎年どちらかの作品を見ることができた(帝室博物館編・発行『東京帝室博物館案内 絵画部』1925年から1929年、同『東洋古画特別展覧会陳列品解説』1926年、同『帝室博物館年報』1926年から1937年)。 正木は、雪舟遺跡保存会の活動を竹内栖鳳に委嘱したと、1925年5月22日の日記に記している⑺「博物館特別展覧会」記事『東京朝日新聞』1906年5月21日朝刊3面⑻東京帝室博物館編『明治39年特別展覧会列品 乙之部 雪舟流及雲谷派絵画』中野鍈太郎、1906年。なお、近代の博覧会・展覧会の中で、雪舟画が最初に展示されたのは、まだ近代的な展示の体制が整っていない頃ではあるが、管見の限り1872年の湯島聖堂博覧会である。出品された雪舟画は「墨画八景八幅」だった(「博覧会図式 明治五壬申年三月於元昌平坂聖堂廿日ノ間」神戸市立博物館蔵(東京国立博物館編・発行『目でみる120年』1992年所収)。⑼画報社、1907年⑽土方久元「雪舟会に就て挨拶」『日本美術協会報告第二次』(以下『報告二』と略称)3輯、1918年など。⑾この展示の出品作品のモノクロ図版は、『日本美術協会第58回展覧会 新古美術出品図録』(審美書院、1918年。青木茂監修『近代日本アート・カタログ・コレクション024 日本美術協会9』(ゆまに書房、2001年)に再録)にまとめられている。ただしこの図録には、出品作品79件のうち22件しか掲載されていない。⑿『報告二』2輯、1918年、10~12頁。なおこの展覧会の入場者数は16611人、一日平均約600人で、他の回に比べると多かった(同、14頁)。⒀『報告二』12輯、1923年、3頁。この展覧会の入場者数は8031人、一日平均約270人だった(同、13頁)。⒁『東京朝日新聞』1923年5月5日朝刊5面。⒂『読売新聞』1923年5月5日朝刊9面⒃『国華』9・12号、1890年⒄沼田『画聖雪舟』聚精堂、1912年、84頁。口絵にモノクロ図版が掲載されている。⒅「序」(前掲、沼田『画聖雪舟』)。紀淑雄は東京帝室博物館員でもあり、農商務省編『稿本日本帝国美術略史』(1901年)の編纂にも従事した。⒆前掲『報告二』12輯、18~9頁⒇『読売新聞』1923年5月5日朝刊9面 三井文庫編/発行『三井事業史 本篇第2巻』1980年、732~9頁 岡倉天心「日本美術史講義」(1890~3年)『岡倉天心全集4』平凡社、1980年、116頁 前掲『報告二』3輯、21頁 雪舟の墓がある益田町の有志が1921年に、雪舟の遺跡を保存する運動を行う団体として立ち上げたもの。会長が貴族院議員で宮中顧問官などを勤めた平山成信男爵、副会長が東京美術学校校長正木直彦、発起人が島根県出身の寺井文三郎、会員に東京美術学校教授の今泉雄作、東京帝国大学教授黒板勝美らがいた。雪舟遺跡保存会の活動の詳細は、別稿に譲りたい。(正木直彦『十三松堂日記 一』中央公論美術出版、1965年、314頁)。― 299 ―
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