㉘ 戦後日本における「アンデパンダン作家」とその制度的背景に関する基礎的研究研 究 者:東京文化財研究所 客員研究員 河 合 大 介1950年代の日本の美術に関する制度的環境は、40年代末にはじまったふたつのアンデパンダン展(いわゆる読売アンデパンダン展と日本アンデパンダン展)と、50年代に勃興した画廊群によって大きな変化を遂げた。それまでは、美術団体主催の公募展で作品を発表していくことが、作家としてのキャリアを形成する主要な道筋だったが、これら新しい制度を背景にして、いわゆる「アンデパンダン作家」と呼ばれた作家たちに代表されるように、画壇の外部で美術家としてのキャリアを形成する可能性が広がった。本研究は、1950年代の日本における美術をめぐる制度に関する基礎的な研究の一部を成すものである。今回、50年代に活発に活動していた画廊から、その特色に応じていくつかの画廊を選び、50年代に開催した展覧会をリスト化した(注1)。今回選択した画廊は、タケミヤ画廊、村松画廊、サトウ画廊、東京画廊、南画廊である。このリストを元に、個々の画廊と作家との関係を浮かび上がらせることで、それらの画廊が作家たちにとってどのような役割を果たしていたのかを検討するとともに、これらの画廊によって作家をめぐる環境がどのように変化したか考察したい。1.タケミヤ画廊タケミヤ画廊は、1951年に神田駿河台の画材店竹見屋に開設され、1957年4月に閉廊するまでのあいだに208回の展示をおこなった。この画廊は、いわゆる貸画廊とは異なり、全権を委任された瀧口修造が選んだ若い新人作家に無償で会場を提供する形式をとっていた。それゆえ、貸画廊のように使用料さえ払えば誰でも個展を開くことができるわけではなく、タケミヤ画廊で個展を開くためには、無償であるとはいえ、瀧口修造の鑑識眼にかなう必要があった。この点において、タケミヤ画廊は、審査を伴う公募展と同様に一種の権威のフィルターを通過せねばらないように見える。しかし、重要であるのは、その選別をおこなう瀧口修造が、読売アンデパンダン展の展評を読売新聞紙上に書いていたということである。読売アンデパンダン展に出品し、瀧口の展評でとりあげられることで、その作家は注目されるとともに実力が認められたことにもなる。さらに、その瀧口によって、タケミヤ画廊での展示作家に選ばれることで、さらなる活躍の場が与えられるならば、公募団体にかかわることなく作家としてのキャリアを積んでいくことが可能となるのである。― 302 ―
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