リアを歩みはじめたといえる。タケミヤ画廊での個展回数は、利根山と並んで4回と最多であり、1952年5月、53年11月、55年3月、56年10月におこなっている。利根山、藤松、小山田はともに、タケミヤ画廊閉廊後は、サトウ画廊で個展を開いている。利根山は1957年8月、1958年6月、藤松は1957年6月、小山田は1955年8月、1957年12月である。このうち小山田は1959年9月には東京画廊で個展を開くに至る。以上のように、タケミヤ画廊は瀧口修造の鑑識眼によって作家が選ばれていたため、無所属の作家も引き上げられてきた。それは、公募団体のような封建的な制度でもなく、アンデパンダン展のような民主的な制度でもなかったが、それゆえにこそ、旧来の制度においては埋もれてきたかもしれないような才能を発掘する役割を果たしたといえよう。2.村松画廊村松画廊は、明治に創業された村松時計店に由来し、おそくとも昭和17年頃には開廊していたといわれる(注3)。この画廊には展示室が4つあり、50年代の貸画廊のなかでは展覧会開催回数はもっとも多いと考えられる。瀬木によれば、「有力な新人の集まるところとして最も活発で目立った」(注4)画廊だった。特に、60年代に読売アンデパンダン展が終わったあとの「反芸術系、ネオ・ダダ系の作家たちなどにはしばしば賃料をとらずに」(注5)いたことから、アンデパンダン系の作家たちの発表の場としても機能した。50年代に村松画廊で開催された展覧会は、タケミヤ画廊とは好対照な多様性を示している。もっとも開催数が多かったのは、美術文化協会の各種展覧会である。作家による展覧会としては、秋保正三・斎藤慶・三浦逞爾の三人展、古川吉重と吉城弘それぞれの個展が、5回と最多である。三浦に関しては詳細が不明だが、秋保・斎藤は二紀会所属であり、古川吉重は独立美術協会、吉城弘は太平洋画会に属していた。このうち、古川と吉城は読売アンデパンダン展にもたびたび出品しており、古川は第3回以降のすべてに、吉城は第3~9回に出品している。彼らは団体で活動基盤をすでに確立しながらも、画廊やアンデパンダン展にも発表の場を広げていったタイプの作家だといえる。そういった作家にとっては、比較的自由に発表できる村松画廊のような貸画廊の存在は大いに利用できたのだろう。他方で、新人作家たちにとっても、村松画廊は格好の発表の場であった。アンデパンダン作家のひとりである金子真珠郎は、読売アンデパンダン展に第3~15回まで出品しており、サトウ画廊の新進作家展にも選ばれている。こういった活動だけでなく、― 304 ―
元のページ ../index.html#315