鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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3.サトウ画廊村松画廊でも、1955年11月、1957年10月、1958年10月と個展を開いている。また、二科会の新人として知られつつあった芥川紗織や吉仲太造らも、サトウ画廊でのグループ展のかたわら、村松画廊で個展・グループ展を開いている。このような新人作家たちにとって、タケミヤ画廊やサトウ画廊で評価されて個展を開くだけでなく、その機会がない期間の発表の場として、村松画廊は機能していたといえる。このような状況を背景にして、村松画廊をはじめとする貸画廊では、個展ではなくグループ展が多く目につく。複数人で画廊の使用料を負担するためである。これは結果的に60年代の前衛集団を形成する一因にもなっていると推察される。この時期の村松画廊で展示をおこなったグループをいくつか挙げるならば、飯田善国らによる「八人の会」(1954年、55年、57年、58年、59年の各10月)、田名網敬一らの「JUNE」(1957年3月、58年9月、59年4月、59年11月、60年4月)、横田健三・平松輝子・仁科喜夫の「異質」(1957年12月、58年12月、59年9月、60年9月)がある。また地方で結成されたグループの東京での発表場所としても機能していた。主なグループとしては、名古屋で結成された「匹亜会」(1959年2月、60年5月)、大阪の「極」(1957年2月)、福井の「北美」(1959年9月)、熊本の「野火」(1958年7月、59年7月)などがある。他にも、朝倉摂・佐藤忠良・中谷泰の三人は、1956年6月、57年9月、58年11月に三人展をおこなっている。また、のちの反芸術の作家たちとの関連でいえば、美術文化協会から分裂し村松画廊で結成展を開催した「アルファ芸術陣」(1955年1月、56年6月)には松沢宥が含まれていたし、篠原有司男が命名したとされる黒木不具人らの「アルシミスト」も展覧会を開いている(1956年9月)。篠原自身も初の個展を村松画廊で開いており(1958年6月)、ほかのネオ・ダダのメンバーも、吉村益信が1955年8月、豊島壮六が1959年10月に個展をおこなっている。村松画廊では、前衛書や染色の展覧会も開かれており、かなり自由度の高い画廊だったことがうかがえる。そういった画廊において、公募団体の中堅、新人、在野を問わず、様々な作家が自らの作品を発表する場となっていたといえる。サトウ画廊は、画材商であった佐藤友太郎が、友人であった画家・馬場彬の勧めによって1955年4月に開廊した。店舗用の物件を探していた佐藤と一緒にいた馬場が、ある二階フロアの物件を見た時に提案したのがきっかけだといわれている。その後、画廊のマネージメントは東京芸術大学を卒業したばかりの若き馬場に一任され、さらに「サトウ画廊月報」の編集も彼がおこなっていた。― 305 ―

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