サトウ画廊は開廊当初から、岡本太郎を代表とするアート・クラブのメンバーによる連続展を開催するなど重要な作家の発表をおこなってきた。また、評論家もその運営に大きく関わっており、前年の個展開催作家から四人を選んで開催する「新進作家展」の選考は、植村鷹千代、江川和彦、岡本謙次郎、瀬木慎一、瀧口修造、東野芳明、徳大寺公英、針生一郎によっておこなわれた。さらに、「サトウ画廊月報」には、こういった新進・ベテランの評論家による文章と、作家自身による発言が掲載されていた。いまだ画廊が数えるほどしかなかった50年代なかばにおいて、このようなサトウ画廊の活動は、その月報を通じて、「時代の美術思潮を体現」していたと針生は回顧している(注6)。サトウ画廊の独自性は、しばしば言及されるように、馬場彬のマネージメント方針によるものが大きい。サトウ画廊は、ほかの貸画廊の使用料が一日3000~4000円ほどだったのに対して、7日間で15000円と安価だったため、申し込みが多かったと言われているが、使用料さえ払えば誰でも利用できたわけではなかった。「まず作品の出来が先行する。それが評論家たちやマネージャーである馬場彬の目にかなわない限り、会場を借りられなかったという」(注7)。このような確固たる方針のもとで、展覧会および月報の編集がおこなわれることで、いわゆる現代美術の作家たちを育てる場として機能していたといえる。サトウ画廊で展示をおこなった作家の傾向としては、山本丈志が指摘するように、「戦前から官展から離れたところで前衛美術を標榜した画家たち、そして戦後、これから新しい美術運動を展開する若き作家たち」だった。50年代にサトウ画廊でもっとも多く個展を開いた作家は、馬場彬を除けば、富ノ井政文の6回(1955年8月、11月、56年11月、57年5月、58年11月、59年10月)である。富ノ井については情報が限られているが、『サトウ画廊月報』2号(1955年11月)に掲載された自筆略歴によれば、もともとは美術文化協会に所属していたが1952年に脱会し、以後はタケミヤ画廊およびサトウ画廊で個展を開催している。その後、団体に所属した形跡がないことから、在野の作家としてサトウ画廊で発表を続けていたと思われる。次に目につくのは、馬場彬とともに4人展、3人展などを開催していた石川勇、昆野勝、深澤幸雄らである。彼らのように馬場と深い関係にある作家を除けば、二科の吉仲太造、読売アンデパンダン展に出品していた近藤竜男がそれぞれ4回の個展をおこなっている。他方で、全体を見渡してみると、小山田二郎、利根山光人、中村宏、池田龍雄、芥川紗織、金子真珠郎といった気鋭の作家や、吉村益信(1960年2月)、赤瀬川原平(1961年6月、江原順企画による『現代のビジョン 現代の呪物 赤瀬川原平の場― 306 ―
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