鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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合』)といったネオ・ダダの作家の個展も開催するなど、作家の幅は広く、瀧口修造のタケミヤ画廊と好対照である。これは、馬場が多くの美術評論家に協力を要請し、彼らの意見を広く取り入れたからだと考えられる。その結果、針生一郎が、「サトウ画廊の開設以来個展、グループ展をひらいた作家たちを通観すると、今日40代以上のめぼしい作家をほとんど網羅して」(注8)いると振り返って述べるように、広範にレベルの高い作家を集めることができたのだろう。それゆえ、サトウ画廊は、先にも引用したように「次代の美術思潮を体現」する存在だったと考えられる。4.東京画廊と南画廊東京画廊は、数寄屋橋画廊に勤務していた山本孝と志水楠男が1950年に開設し、1951年に鳥海青児展を第一回展として開催した。南画廊は、1956年4月に志水が東京画廊から独立して開廊した。両画廊はともに貸画廊ではなく、画商であったが、戦後日本の前衛美術を牽引する役割を担った。山本孝は、骨董商の平山堂に勤務しており、そこで洋画市場の可能性を見て取り、1948年に独立して三浦善市郎、志水楠男とともに数寄屋橋画廊を開廊した。その後、数寄屋橋画廊は三浦に任せて、山本と志水によって東京画廊が開廊した。50年代初頭に読売新聞の海藤日出男と知り合い、また山本が1953年に欧米の視察旅行へいったことがきっかけで、東京画廊は徐々に現代美術へと比重を移していくことになる。志水が独立して開いた南画廊も、取り扱い作家としては、当初は梅原龍三郎、安井曾太郎、岸田劉生、佐伯祐三、萬鉄五郎などの洋画家中心だった。しかし、1953年、海藤をつうじて今井俊満との交流がはじまり、1959年に、フォートリエ展で注目されるに至る。東京画廊も南画廊も、50年代は洋画中心の展示であり、本格的に現代美術を牽引することになるのは60年代に入ってからである。しかし、ここでは、50年代に開催した展示について簡単に触れておきたい。東京画廊で開かれた個展は、当初は、鳥海青児(1951年11月、52年1月、56年1月)、川口軌外(1951年11月、52年1月、54年10月)、安井曾太郎(1953年7月、54年7月)といったすでに一定の評価を得ている画家たちのものだった。50年代後半になっても、斎藤義重(1958年11月、59年12月、60年3月、11月)の個展を頻繁におこなっているが、合間には、小山田二郎(1959年9月)などの個展も開き、60年代に入ると、桂ゆき(1961年6月)、久野真(同年9月)、元永定正(同年9月)、宮脇愛子(62年1月)と現代美術家を頻繁に取り上げ、徐々に現代美術画廊としての方向性を確かなものとしていく。― 307 ―

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