鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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南画廊は、難波田龍起の個展を1961年までに4回開催している以外は、新人作家を比較的早くから取り上げている。開廊記念展でも取り上げた駒井哲郎は計3回(1956年6月、1958年12月、1960年4月)の個展がおこなわれた。同様に、九州出身で新制作派展や自由美術協会展に出品していた平野遼の初個展を含む3回の個展(1957年5月、58年9月、59年6月)、北陸美術会所属で自由美術協会展に出品しており、すでにタケミヤ画廊とサトウ画廊で個展を経験していた小野忠弘の個展を3回(1958年4月、59年9月、62年10月)、1956年に契約した今井俊満の個展を1958年と1962年に開催するなど、若手作家の個展を複数回開催している。また、九州派の桜井孝身(1959年8月)、菊畑茂久馬(1962年6月)、反芸術の工藤哲巳(1959年9月)、グループ音楽の刀根康尚(1962年2月)といった、より若い作家たちにも発表の機会を提供している点は注目に値するだろう。東京画廊と南画廊は、現代美術を扱う画商の先駆けとして、当時の前衛美術の作家たちを支える役割を果たしていくことになる。結び本稿では、1950年代に登場した画廊群から特色のある画廊を選択し、50年代に開催された展覧会をリスト化することで、それぞれの画廊の特色と、作家たちのキャリアに果たした役割を浮かび上がらせてきた。ただし、ここで取り上げることができたのは、戦後日本美術の制度的背景を成す一部にすぎない。中谷泰が1954年に画壇外部の美術運動の可能性について語った際には、画廊の話題は一切出ずに、日本美術会や平和美術展、職場美術協議会といった活動が挙げられているように(注9)、画廊だけがそのすべてだったわけではない。戦後の日本においては、新しい美術団体が生まれ、先述のような美術運動もあれば、画廊の数も増加の一途をたどるなど、美術をめぐる制度は急激に多様化・複雑化していった。本稿でみたように、新しい画廊といっても一様ではなく、純粋な貸画廊から、ある程度の選別のうえで貸し出された画廊、現代美術を扱う画商による画廊があり、その多様性によって、様々な作風の作家たちが拾い上げられることとなった。そこには、アンデパンダン展を主戦場とする在野の作家であろうと、公募展に出品している画家であろうと、ベテランだろうと、新人だろうと、発表の機会が与えられていったのである。こういった画廊の登場は、美術をめぐる人々の関係をも変化させることになっただろう。たとえば、篠原有司男が、ネオ・ダダ結成に参加する仲間たちと画廊で顔を合わせるうちに知り合いになっていったと語るように(注10)、画廊は団体に属さない― 308 ―

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