注⑴リストは各画廊の記録集および展覧会図録をもとに、雑誌などの情報を補って作成した。出典は以下のとおり。「第26回オマージュ瀧口修造展 瀧口修造とタケミヤ画廊」図録(佐谷画廊)、2005年;「アート・アーカイヴ資料展XI タケミヤからの招待状」図録(慶應義塾大学アート・センター)、2014年;『村松画廊 1942-2009』、村松画廊、2009年;「馬場彬とサトウ画廊の画家たち」図録(秋田県立近代美術館)、2001年;『東京画廊60年』、東京画廊、2010年;『志水楠男と南画廊』、「志水楠雄と南画廊」刊行会、1985年。また、読売アンデパンダン展の出品歴については、瀬木慎一監修『日本アンデパンダン展 全記録 1949-1963』総美社、1993年を適宜参照した。作家たちにとって出会いと交流の場でもあった。また、貸画廊といっても、必ずしも定価で貸していたわけではなかった。篠原は椿近代画廊のオーナーと仲が良いことで、画廊が空いているときには使わせてもらったというし、60年代の内科画廊でも無名の和泉達が短い間に二度も個展をおこなっているのは。オーナーが調整してくれたからだと言っている(注11)。さらに、評論家たちも作家や画廊に対して無償あるいは薄謝でテキストの執筆や展覧会の助言といった援助をしていた。このように、画廊の登場は、単に発表の場が増えたということにとどまらず、作家、画廊主、画商、評論家といったアート・ワールドの住人の関係性をより緊密にし、あるいはその構造を根本的に変革することになったともいえるだろう。今回の調査では、任意に選んだ特徴的な画廊を対象としたが、その他の画廊も重要な役割を担っていただろう。例えば村松画廊と同種の貸画廊でも、村松画廊に次ぐ展示室数をもった銀座画廊、出版社が運営する中央公論社画廊、企業による資生堂画廊や丸善画廊などがある。現代美術の展示が多かった貸画廊としては、養清堂画廊やトキワ画廊、美松画廊がある。また、画商が経営する画廊では、サエグサ画廊やフォルム画廊も視野にいれるべきだろう。こういった50年代の画廊の展覧会記録は、いまだ十分に整理されているとはいえず、これらの情報を収集・整理することは今後の課題として残る。こういった情報が整理され、公的な機関でデータベース化して公開されることができれば、今後の戦後日本美術研究に大いに資することが期待できるだろう。⑵以下、特に断りのない限り、今回作成したリスト(タケミヤ画廊、村松画廊、サトウ画廊は1960年まで、東京画廊、南画廊は1962年までに開催された展覧会)の範囲で論じる。⑶瀬木慎一『戦後空白期の美術』思潮社、1996年、174頁および、椎名節「村松画廊概要」『村松画廊1942-2009』、3頁。⑷瀬木慎一『戦後空白期の美術』、174頁。⑸椎名節「村松画廊概要」、3頁。― 309 ―
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