は、女性たちを旧時代から解き放ち新たなアイデンティティを与えたといえる。デュフィの葛藤デュフィは、テキスタイル制作への着手後、たびたびモードの仕事を請け負った。彼はP.ポワレのためにドレスのデザイン画も多数制作し、さらにその仕事はB.F.社のための広報物制作や布地に付属するメゾンのタグ〔図10〕の制作にまで及んだ。またロサンゼルスのゲッティ・リサーチ・インスティテュート所蔵のデュフィ関連の書簡の調査により、デュフィが比較的早い時期(注23)からモードの仕事と画業の両立について葛藤を抱いていたことがわかった。彼は友人のF.フルーレ宛てた手紙に、当時の心境を書き綴っている。1915年12月30日パリ:親愛なるフルーレへ。私はこのところいつも、ドレスのデッサンの勉強に打ち込んでいる。ねぇ、君はどれほどの労務であるかわかってくれるね。世間の好評を博するためにはこのような訓練を経なければならないのか。私はあらゆるモードのデッサンを見てきたし、次のように思っている。すなわち、ʻ我々の親方〔過去の巨匠か雇い主のクチュリエのことか〕、それで全てですʼ。そして、亜鉛製のいくつものローブと木製の靴、蝋製の数々の頭のもとで、ランクレ、ワトー、シャルダンの〔が描いた〕人物たち、そしてクラナッハの描く乙女にすら見えるその像から、せめてポーズを見つけ出そうと茫然自失としていた。しかし、あぁ、私はそれらを見出すためにどうすればよかったのか。気違いじみているけれども、私はあくまでその試みを続けつもりだ。必要な悪あがき〔La contorsion〕にまで達しうるだろう。明日にでも、平穏な年が訪れるだろうか…(注24)。書簡のなかの「蝋製の数々の頭のもとで」の件は、単に衣装を纏うマネキンを指す、あるいはデュフィは戦下中の昼間にパリ市内の工場で奉仕活動に従事していたので(注25)、寡黙な労働者を蝋人形に喩えたのかもしれない。いずれにしろ、その文面にはモードの仕事に対する疲れ、過去の巨匠たちそして画業への憧憬が表れ、挙げられた画家名から戦争の影が感じられる。おわりに以上、本研究では、過去に特定の絵画作品を挙げての考察がなされてこなかった― 316 ―
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