鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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久保惣鏡(d鏡)と同じく表現されており、さらに葉は風に翻って裏側をみせる様を繊細に描写する〔図15〕。先行研究によれば製作年代は久保惣鏡をはじめとする中型鏡よりもやや古く、7世紀第3四半期と考えられている(注11)。瑞獣などは高肉で表現されるものの、ほとんど彫刻と同じような高浮彫であらわされる久保惣鏡と比較すれば、文様の突出はそれほど極端ではない〔図16〕。本鏡や同型の正倉院鏡に関するこれまでの研究でも、蠟原型の製作にあたってはまず石型のような硬質の素材に陰刻した笵を作ったことが想定されている(注12)。面径の異なる鏡であるため単純に比較はできないものの、造形の意識という面で久保惣鏡と香取鏡の間には段差があると考えられる。f.陝西省西郷県出土 海獣葡萄文鏡(陝西省歴史博物館)〔図17〕直径29.0cmの大型鏡である。伏せた獅子形の鈕を中央に置き、その周囲にさまざまな姿態の獅子8頭と葡萄唐草文を配する。外区には獅子または狻猊とみられる獣と鳳凰、孔雀、鶏、鴛鴦を2頭一組で配する。葡萄唐草文は凸圏の周りに外区よりも一段高く巡らせた凸帯にも連続し、小禽や昆虫を配する。もっとも外側の文様帯には雲気状に連なる花文をあしらう。同じく大型鏡である香取神宮鏡(e鏡)の凸帯は、上面の外区との境に凸線が巡っていた。しかし本鏡ではその境が明瞭ではなくなだらかに連続していることから、後出の形式と考えられる。文様の構成や躍動的にあらわされた瑞獣の表現は香取鏡と共通する部分も多い。しかし文様の突出の度合いには違いがみられる。それぞれのモチーフを立体の彫刻としてあらわすところはむしろ久保惣鏡(d鏡)と共通しており、造形の意識としてはこちらに近いと言える。つまり、7世紀中頃に海獣葡萄文鏡の形式が完成し、7世紀末から8世紀にかけては、さらに立体的に文様を造形した久保惣鏡や本鏡のような製品が作られるようになったことがわかる。これは3代皇帝・高宗(在位:649~683)やその后であった武則天(則天武后)の時代であり、鏡式成立への関わりも想定されよう。神龍2年(706)に高宗と武則天の乾陵に陪葬された永泰公主、懿徳太子、章懐太子らの墓室壁画は、7世紀までのややぎこちない生硬な表現を脱し、構図や表情の描き分け、背景の遠近感など、写実性や空間把握の面で大きな進歩がみられる。仏教彫刻をみても、7世紀後半から写実を基調とした新しい造像様式が形成され、武則天の時代に花開いた。唐三彩と称される陶器が明器として製作されはじめたのもこの時期と考えられる。海獣葡萄文鏡をはじめとする青銅鏡の造形意識の変化が、絵画や彫刻、他の工芸の様式とも軌を一にしており、盛唐様式の成― 328 ―

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