「サロン・キュビスト」たちがセンセーショナルに登場し、前衛芸術の最前線として取り上げられた時期でもある。しかし、1914年に勃発した第一次世界大戦は、パリにおける前衛芸術を停滞させ、盟友ジョルジュ・ブラックをはじめ多くの芸術家たちが戦線に赴いたことで、キュビスムをはじめとするパリの芸術運動は大きな結節点を迎えた。この年から既に、ピカソの画面には、戦後に盛んに現れる古典主義的な様式が現れ始めていることから、この期間を彼におけるキュビスムの末期と捉えても良いだろう。彼らをめぐる環境がめまぐるしく変化するなかで、恋人エヴァは病を患い、大戦の終結を待たず1915年の12月にこの世を去る。愛情に満ちた幸福な表現から、病に伏せる恋人、そして死にまで至るエヴァの姿は、ピカソの作品にどのように表わされているだろうか。ピカソの伝記作家ジョン・リチャードソンは、エヴァの死の直前に大作《アルルカン》(1915年、ニューヨーク近代美術館)〔図24〕を制作していたことに触れ、これを恋人の死に際しても絵画制作に打ち込む冷酷な芸術家の自己投影であると捉えている(注1)。しかし、《アルルカン》と同じ時期に制作された作品を取り上げていくと、ピカソがここでキュビスムの技法をはじめ、寓意的な表現を用いながら、彼女の不在を憂いている様子を読みとることができる。それは、キュビスムの初期段階で消し去られた物語的な要素の再来といえるのではないだろうか。かつて、ウィリアム・ルービンは、1909年に制作された《テーブルの上のパンと果物皿》(1909年、バーゼル美術館)〔図2〕を中心に、《アヴィニョンの娘たち》(1907年、ニューヨーク近代美術館)など、ピカソのキュビスムの前段階から初期において、準備素描から完成に至る間に「ナラティヴ(物語性)から“アイコニック(イコン的)”へ」と変容する傾向を指摘している(注2)。彼は《テーブルの上のパンと果物皿》において、素描の初期段階には幾人かの人物が登場する画面として構想されていた作品が〔図3〕、準備素描を重ねるにつれて人物が静物へと変容していく過程を取り上げ、人物間の交流や個性を取り除き、物語性や寓意性を排除していく傾向をキュビスムの初期段階における特徴としている。こうした傾向は、同じように売春宿を舞台として、客である水夫と、彼に死の警告を与える医学生が対峙する「エロスとタナトス」の寓意画として構想された《アヴィニョンの娘たち》においても、準備素描のなかで男性の登場人物が削られて物語的な要素が排除され、最終的には5人の娼婦たちが屹立する作品となっていることにもみることができる。確かに、1909年以降の分析的キュビスムによって制作された作品の多くが、ポール・セザンヌに倣うように、静物であろうと人物であろうと象徴性を帯びることなく造形的な探究の対象物として選択され配置されていることを考えるならば、ピカソにおけ― 345 ―
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