「物語性」の回帰をめぐってロセスに似た変容が、ここで行なわれている。しかし、過去の作品との大きな差異は、無機的な表現へと向かうのではなく、そこにエヴァのシンボルである波うつ髪を描きこみ、顔と性器を同一視するようなエロティックな寓意的表現を取り入れていることにある。上記の2点を比較すると、1913年のピカソには、《葡萄の帽子の女》のように重層的に変容を積み重ねていくプロセスと、《肘掛け椅子に座るシュミーズの女》のように準備素描を経て変化するプロセスとが並存していることがわかる。ともに総合的キュビスムにおけるキュビスムの語彙を用いながら、前者はその痕跡をあえて露わにし、記号によってエヴァの特徴を表し、後者は人物を脱個性化しながらも、絵画はエロティックな寓意へと収斂している。こうしたピカソにおける物語性の回帰は、どのような契機で訪れたのだろうか。象徴主義的な気運の高い世紀末のバルセロナにおいて、前衛芸術家としての活動をはじめたピカソにとって、キュビスムの絵画を単純な造形的探究に終始させることには満足できなかったのかもしれない。稿者はこうした寓意的な表現をピカソに再びもたらした一因として、1910年のサロン・ドートンヌを皮切りに活動を活発化し、年々勢いを増すサロン・キュビストたちに触発されたのではないかと考えている。ピカソとブラックが創始したキュビスムという、遠近法に基づくそれまでの西洋絵画の空間概念とは全く異なる様式は、同時代において前衛芸術を模索する多くの画家たちを刺激した。彼らのうち何人かの画家たちはキュビスムにそれぞれの理論を持ち込むことで、ピカソらに影響を受けながらも、1911年ごろには新たな展開を見せ始めていた(注9)。この年のアンデパンダン展の41室では、アルベール・グレーズやジャン・メッツァンジェ、ル・フォーコニエ、ロベール・ドローネーらが示威運動といえる展示を行ない、大きな話題を呼んでいる。新聞や雑誌では批評家たちのほかに、自身らが寄稿しながら独自の芸術理論を展開し、1912年末にはグレーズとメッツァンジェが『キュビスムについて』(注10)を発表するなど、パリで最も勢いのある芸術運動としてキュビスムが認知されていった。しかし、ピカソやブラックは戦略的にサロンへの出品を拒んでいたために、キュビストの代表的な画家は創始者である彼らではなく、扇動的に活動を続ける新しいキュビストたち「サロン・キュビスト」であった。批評家として強い影響力を持っていた詩人のギョーム・アポリネールも彼らを支持し、ますます言説的な後ろ盾を得た彼らは、翌年にはサロン・ドートンヌに合わせ― 348 ―
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