鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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③竹久夢二の肉筆服飾デザインに関する研究――「合作帯」を中心に――研 究 者:金沢湯涌夢二館 学芸員  川 瀬 千 尋はじめに竹久夢二(1884-1934)の服飾デザイン活動は、港屋絵草紙店(大正3年開店、以下港屋)の頃から昭和初期まで確認できる。先行研究では、夢二の美人画にみる服飾表現に関する調査(注1)、藍染め浴衣の企画「草葉染」に関する調査(注2)、「夢二式」が社会現象となり得た要因として考察するものがある(注3)。しかし、現存点数の少なさ故か、作品それ自体の論考には至っていないように思われる。本論では、夢二が大正6年(1917)頃、恋人・笠井彦乃とともに帯地へ図案を手描きした《合作帯》〔図1〕を調査対象とする。大正初期に手がけた服飾デザインの作例を挙げ、当時の美術動向における夢二の芸術観について検討を加えつつ、活動の実態を明らかにすることによって、美術史上での位置づけを試みたい。1「小美術店」としての港屋明治末期から大正初期にかけて、芸術家が個人の感覚や趣味に基づき日用品などを制作する「小美術」や「小芸術」と称される新思潮が生まれた(注4)。それらは、アーツアンドクラフツ運動の際に定着した「Lesser Art」の訳語とされ、アカデミックな展観芸術から離れ、アマチュアの立場から自由な自己表現を行い、「工芸」に内在する「美術」としての可能性を目指したものとされる(注5)。絵葉書や雑誌の発行により、庶民が趣味として美術や文芸を楽しむ時代が訪れ、書店には錦絵、半切画、色紙、短冊なども並び、小規模の個展を開催する画廊となって様々に展開した(注6)。展覧会では、明治44年(1911)4月の「美術新報主催新進作家小品展」(京橋吾楽)を嚆矢とし、大正2年2月の「現代大家小芸術品展覧会」(日本橋三越)などが開催され、岡田三郎助、富本憲吉、藤井達吉、津田青楓、バーナードリーチらが出品して活況を呈した。また、大正3年には、1月に三笠美術店(京橋)、5月に美術店田中屋(京橋)が開店し、富本や藤井が深く関わっている。夢二は段階的に小美術の動向に接近し、合流した。明治43年7月に琅玕洞を訪れ(注7)、大正2年11月の「第二回小芸術品展覧会」(日本橋三越)に羽子板や屏風を出品し(注8)、大正3年10月に小美術店の港屋(日本橋)を開店した(注9)。そこでは木版画、カード、夢二著書、人形、千代紙、半襟などを販売し、恩地孝四郎ら「月― 25 ―

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