鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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て「セクシォン・ドール」(黄金分割)というグループを名乗り、パリのボエティー画廊において独自の展覧会を行なった。このメンバーには、前述の画家たちのほかに、ヴィヨン兄弟、アンドレ・ロート、そしてエヴァの元恋人であるマルクーシスも名を連ねている。彼らはキュビスムの歴史的な革新性と論理を諸媒体を通して雄弁に語り、ピカソとブラックが創始したことを認めつつも、それを論理的に展開して引き継いでいるのは自分たちであると主張している。ピカソは決して彼らに迎合することなく、ブラックとともに独自の探究を続け、新しい技法であるコラージュの導入を契機に総合的キュビスムという新しい段階に駒を進めている。ところが、第一次世界大戦の勃発によりその活動が終息するまで、センセーショナルな展示を行なうサロン・キュビストたちがキュビスムの主流となることには抗えなかった。1912年にコラージュとパピエ・コレの導入とともに転換点を迎えたピカソとブラックのキュビスムが、彼らの新しいキュビスムに触発されなかったとは考えられない。ピカソがこの時期に人物像を多く手がけた背景に、彼らへの対抗心があったことはいくつかの類似する作品が物語っている〔図16〕。また、1912年に制作された《ギター、楽譜、グラス》(1913年、マックネイ美術館)に貼り付けられた新聞に記された「戦争が始まった」(La Bataille sʼest engagée)という文句の一部は、バルカン半島で口火を切った戦争の報道であると同時に、ピカソとサロン・キュビストたちとの戦いを宣言するように読み取ることができる(注11)。何より、ここではサロン・キュビストの中心人物であったグレーズやル・フォーコニエが、キュビスムの技法を用いて多くの寓意画を制作していることを挙げたい。スプーンを持つ女性像《ティータイム(味覚)》(1911年、フィラデルフィア美術館)〔図17〕や、収穫物に満ちた籠を頭に載せた《豊作》(1910-1912年、ハーグ市立美術館)〔図18〕は、現実に見た光景を描く視覚的なものではなく、かつてピュヴィス・ド・シャヴァンヌが得意としたように、人物や主題が何らかの寓意を表わしている。彼らのなかでも最も理論派であったグレーズは、かつてアレクサンドル・メルスローが中心となって、中世の修道院にならって結成した象徴主義者による芸術家共同体「クレテイユ修道院」に参加していたことに触れながら、自らが造形性にとどまらない、深い芸術的探究に基づいていることを主張している。彼らはそれぞれが独自の制作理論を携えながら、興隆するパリの前衛芸術界において確固たる立ち位置を据えようとしていたのだ。ピカソは彼らに対抗しながらも、主題や表現方法において影響を受けていたのではないだろうか。― 349 ―

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