鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
361/550

エヴァの病と死:透明なエヴァをめぐってエヴァの病が深刻なものとなったのは、ピカソの父がこの世を去った1913年である。はじめは扁桃腺の疾患と思われていたために、都市部を避けてセレや南フランスのアヴィニョンに療養を兼ねて逗留していたが、実は彼女の体を蝕んでいたのは癌という死に至る病であった。1914年から翌年にかけて病は進行していくが、ピカソはかつて幼い妹を病で失った過去の経験から、病気の女性に対して恐怖を抱く傾向があり、このときエヴァに対しても冷たい態度をみせていた節がある。エヴァはこの年の11月に病院から一時帰宅を許された後に再び入院し、12月14日にこの世を去った。死の数日前に、ピカソはガートルード・スタインに宛てて手紙を書き、日々悪化する恋人の容態を嘆き、自らの人生を悲観している(注12)。しかし、同時に《アルルカン》(1915年末、ニューヨーク近代美術館)の完成をその末尾に加え、かつてない出来栄えの作品であることを伝えている。リチャードソンをはじめ、エヴァの死に際してもなお《アルルカン》という大きな作品の制作に打ち込んでいたピカソに冷酷さを読み取るのはこうしたエピソードが影響している(注13)。しかし、ピカソの心情は、残忍な笑みを浮かべて佇む不気味な《アルルカン》のそのものであっただろうか。同時期か少し後に制作された作品《肘掛椅子に座る女と鳩》(1915-1916年、宮崎県立美術館)〔図19〕には、死にゆく恋人に対するもうひとつの態度を読み取ることができる(注14)。百合を象った壁紙の前に、紫色の帽子を被った女性が座り、新聞を読んでいる。その眼は閉じられているように穏やかで、頭部には白い鳩の飾りのついた帽子を着用している。画面は何度も手を加えた痕跡を残し、画面左にはこの年にピカソが取り入れた点描技法が用いられている。関連する素描は残されているものの、彼女の姿はすでに死の床に就いた様として描かれており〔図21、22〕、準備素描として制作されたのか、それとも後に手がけたものなのかは判然としない。いずれにせよ、死にゆくエヴァの姿を生き生きと描いている本作は、彼女の姿を理想化して描いたものであろう。ここでピカソはエヴァの姿を黒い影に囲まれた空白によって表している。これは《グラスと食前酒「スズ」の瓶》(1912年、ワシントン大学アートギャラリー)〔図20〕が、テーブルの上の瓶をコラージュの余白で表してるように、主たるモティーフをあえて不在のままに残し、諸要素の織り成す関係性のなかで浮かび上がらせる総合的キュビスム期において度々行われた方法である。彼は総合的キュビスムの記号論的な操作を用いて、エヴァという人物の不在や喪失を、透明な存在として示すことで表現している。また1900年以前に流行した帽子の白い鳩の装飾は〔図23〕、彼女がすでに― 350 ―

元のページ  ../index.html#361

このブックを見る