映」の展覧会が開催された。わずか2年後に閉店した要因は、店主で元妻・岸たまきとの関係破綻や京都移住といった個人的な問題(注10)の他、小美術ブームの終焉も大きいだろう。美術・工芸界全体で「工芸」をプロフェッショナリズムに基づく公的な展観芸術として認知させようする思潮が新たに興りつつあるなか(注11)、小美術店の多くは1年ほどで閉店(注12)、大正5・6年には美術雑誌から小美術特集も消えていった(注13)。小美術のうち服飾品に類する作品に注目したい。三越の大正2年2月「現代大家小芸術品展覧会」に富本は刺繍半襟(注14)、同年11月の第2回展に「更紗模様夏帯」(注15)、翌年5月の第3回展に「置更紗の帯」を出品した。同展では渡辺審也が「黒繻子の帯に油絵絵具で描いたもの」も出品している(注16)。夢二は、このような作品に刺激され服飾デザインを開始したと思われる。港屋では、肉筆帯、帯揚げ、半襟、創作図案を染めた浴衣等が販売されたという(注17)。夢二は明治43年頃から美人画の服装に独自のデザインを施しており、人気の絶頂期に彼が開いた港屋は美人画に憧れる女性客で賑わったという(注18)。開店当初、刺繍半襟〔図2〕は主力商品で(注19)、その生産は大正4年春頃までミシン刺繍職人の吉田ソノに支えられ(注20)、評判を呼んだ(注21)。黒繻子の帯地に「MINATOYA」と刺繍された帯《いちご》〔図3〕は港屋製とみられる肉筆帯として唯一のものだが、浴衣は確認できない。その頃、夢二式美人画のしぐさを真似て夢二デザインの服飾品を身につけた女性が街に現れた。それについて、夢二もまた理想の夢二式像の現実化を意図したのではないかという指摘がある(注22)。ところが、実際に港屋の半襟をふつうの人がつけると「半衿ばかり眼にたつて、きれうはたしかに三割がた劣つてみえたくらゐ」(注23)、港屋浴衣は「一人でも着たものがあると、二人目三人目はわきを向くので売れないという」などと厳しい証言も残る(注24)。後年、夢二はその頃を反省して「欧風の図案に心酔して(中略)黒繻子にべたべたと油絵具をつけたり」(注25)と記し、新しい意匠に挑戦した浴衣図案も多くはうまくいかなかったと述べる(注26)。当時、着物意匠の流行は意図的に百貨店が生みだし雑誌が取り上げることで全国に伝播した(注27)。大正2・3年にエジプト模様、セセッション模様がごく短期間流行したが、その後は有職風、絞り風、光琳風など伝統的な模様が展開し、表現派や構成派風など西洋趣味的な模様の流行は大正11年頃を待たねばならなかった(注28)。小美術の思潮に立脚した趣味的なデザインとアマチュア的な制作では、着こなしの問題も含めて実用的でなかったという状況も垣間見える。ともあれ、夢二は当時の日記に「いろんな商品を作ることを火のついたやうに考へ― 26 ―
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