㉞ 明治時代における「古器旧物」の模造・模本製作の意義─奈良を中心に─研 究 者:原 瑛莉子はじめに明治時代に作られた「古器旧物」の模造や模本は、国内外の博物館や美術館に所蔵されており、その製作から1世紀ちかくが過ぎる昨今、館史や大学史の研究とともに基本情報やその背景など詳細が明らかになりつつある。とりわけ、当時東京美術学校によって作られた模造・模本については所蔵先である東京国立博物館で研究が進められ(注1)、模造・模本がそれに関わった作家に与えた影響や美術行政と美術教育への役割が注目される。本報告では、明治時代に作られた模造・模本のなかでも現在、奈良国立博物館に伝わるものの一部について基本情報を提示する。これまで名称も含めてまとまって紹介されたことが少なかったため存在を知られていないものもある。前述の岡倉天心による模造・模写事業に準じて制作されたとされる模写も含まれる一方、明治初期の奈良博覧会に関わる模造も見られる点が特徴である。次に、明治時代に海外にわたった模造・模本に着目し、調査の叶ったドイツのケルン東洋美術館とベルリン民族学博物館(旧プロイセン王国博物館群)に収蔵された模造・模写について、発注者であるアドルフ・フィッシャーに関わる資料から判明する新知見と模造・模写の製作の背景を考察する。近代的な模造・模写の起源明治23年(1890)、模造・模写事業を帝国博物館美術部長時代に計画し実行した天心は、これまで指摘されているように、東京美術学校の教員や学生にとっての古典の学習という美術教育上の成果に加えて、博物館展示品の拡充に欠かせない事業と位置付けていた。それは美術部長辞任後ではあるが矢野文雄に宛てた書翰にその一端を窺える。明治32年(1899)3月18日付の書簡には「我美術家を選抜して其の模写・模造を担当せしめ物品と同時に美術家を得るの道を取る事を得べし」とある(注2)。当時、歴史体系に沿って美術を展示し収集しつつあった帝国博物館が一層、「東西の美術標本を蒐集し、各時代の特徴を開示して後進の参考に資する」ように奨励したうえで「収蔵品の増加が必要」と述べている(注3)。天心のいう「美術標本」にはオリジナルと模造・模写の両者を含む意味があると捉えてよいだろう。こうした考えは、― 366 ―
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