鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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明治26年(1893)のシカゴ万国博覧会で、鳳凰殿のなかに美術学校に委嘱した模造・模写を使って日本美術史を展示したことにも明確にみてとれる。では、こうした天心の模造・模写に対する着眼の契機は具体的にどのようなものだろうか?奈良国立博物館所蔵の模造・模写現在、奈良国立博物館が所蔵する模造のうち、工芸においては奈良博覧会からの買い入れが明治29年10月16日付で42件ある(注4)。奈良博覧会は、明治8-23年(1875-1890)まで明治10年(1877)を除く毎年、開催されていた。博覧会中には奈良博覧会社によって奈良の社寺から出陳された什宝や正倉院宝物の模写や模造が行われたことが知られる(注5)。その目的は、先行する京都博覧会の事例をふまえて明治7年(1874)に蜷川式胤が奈良県令の藤井千尋に奈良博覧会の必要性を説き、奈良博覧会社が半官半民で設立されたことから窺えるように、「古器旧物」の価値と保存を啓蒙するだけでなく、地元の職人や工人に模造を委嘱することで殖産興業をはかる側面が大きかった。当時、文部省に務めていた天心は明治10年代後半からフェノロサや九鬼隆一とたびたび奈良を訪れており、明治19年(1886)の記録『奈良古社寺調査手録』によれば5月2日に奈良博覧会を訪れ、出陳品の調査をしていることが分かっている。想像の域を越えないが、同じ会場で精巧な模造・模本の展示を天心が目にしなかったとは考えにくく、その製作や陳列の意義を美術教育や美術行政にも見出したと考えられないだろうか。その10月からはフェノロサとともに欧米視察へほぼ1年赴いているが、その間に多くの博物館等で古典作品の石膏模造を目にし、あらためて模造・模写の必要性を認識したであろうことも想像に難くない。天心の発案による古画模写事業(明治28-29年(1895-1896))で製作された模写は、その写しが作られて奈良帝国博物館の所蔵となった(注6)。現在、同館の絵画においては模本や復原図を160件ちかく所蔵しており、うち明治時代に製作されたことが確実なものは11件あり、多くがこのときの「写し」に該当すると考えられる(注7)。模写とその写しの対象となったオリジナルの作品はいずれも、その後の古社寺保存法の対象となったり『國華』で紹介されたりなど、日本絵画史上、重要な作例として保存修理や評価がなされ、現在の絵画史研究にも引き継がれている点で、この時期の作品評価の影響力の大きさを改めて認識させられる。そうした制度や評価を整えていった天心が、たびたびの奈良来訪で古社寺の什宝だけでなく奈良博覧会で陳列された模造・模本をヒントにしたならば、蜷川式胤の働きかけによる奈良博覧会開催の意義は一層、重要なものといえるだろう。― 367 ―

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