鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
379/550

ドイツにわたった模造・模写ベルリン民族学博物館とケルン東洋美術館には、優れた日本美術のコレクションがある。これは東洋学者でベルリン民族学博物館東アジア部門部長のヴィルヘルム・カール・ミュラー(1863~1930)と、世界を旅行し特にアジアに関心を寄せた、コレクターでケルン東アジア美術館設立者アドルフ・フィッシャー(1856~1914)の功績によるところが大きい(注8)。1901年、ミュラーは東アジア部門の任務で、中国、日本、朝鮮にあわせて1年間滞在した。日本では寺社、奈良帝室博物館、京都帝室博物館等を訪れ、1904年、北京ドイツ大使館でフィッシャーに進言し、1905-1906年にベルリン民族学博物館の収蔵品を蒐集するよう求めた。ミュラーからの指示に基づき、フィッシャーは同館および自身の所蔵品として多くの作品を来日中に購入している。その記録は、現在ベルリン民族学博物館附属図書館に残されている〔図1〕。この冊子は、購入品目や価格、輸送箱の番号やミュラーへの書簡や報告書などベルリン側が受け取ったフィッシャーの記録原本をおよそ1年単位でまとめた1次資料で、なかにはフィッシャーが模造を依頼した田中文弥父子が、完成した模造とオリジナルの彫像とともに収まる写真も含まれている〔図2〕。さらに当時の日本円での購入価格やフィッシャーが見聞きした日本の美術界の諸相だけでなく、ドイツにわたったオリジナルや模造のうち第2次大戦などによって現在は散失している品目も含まれており、非常に貴重なものである(注9)。ここでは本冊子(「vol. 3」「vol. 5」と略称)およびケルン東洋美術館に所蔵されるフィッシャーの日記の翻刻(以下、「ケルン日記」。注10)に基づいて先学の見解(注11)を補強する情報を提示し、フィッシャーとミュラーの書簡からわかるアジア美術のコレクションへの理念と模造の意義を明らかにしたい。まず、フィッシャーと田中文弥の対面だが、「ケルン日記vol. 25」によれば1905年6月6日が初めと見られる。「(京都)博物館に行き、ノムラとナカムラが田中文弥という彫刻家の家へ連れていってくれた。とても感じがよく友好的な男で良い顔をしている。彼の息子も同じく若い好青年だ。ふたりとも真の技量ある潔い職人で、彼らが習得した技術は何世紀ものあいだ親から子へと受け継がれたものである。購入した観音像(注:模造か)が完成間近であることを確認した。上唇がやや出っ張っていたのをのぞけば、全体の仕上がりは気に入った。田中は、一族が神仏のように大切にしてきた小さな彫像をいくつか見せてくれた。なかでも傑作は、運慶による毘沙門天像と仁王の頭部だ。彼の家でとてもよい時間を過ごし、翌日、彼とともに奈良へ行く約束をとりつけた。(奈良の)博物館で展示されている朝鮮の観音(注:百済観音か)を― 368 ―

元のページ  ../index.html#379

このブックを見る