鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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る」(注29)と書き、後年「何にでも興味が持てていろんな仕事をやつて見たいたちだつた。黒船屋で売る浴衣や帯や半衿や木版画やその他小美術品のデザインや加工にさへ、なかなか興味を持つてゐた」(注30)と記したことから熱意の程が知れる。画壇に属さず自由に制作した夢二だが、港屋の開店と服飾デザインの着手は、小美術の思潮を背景とした積極的な芸術活動だと評価できる。2 婦人之友社における服飾デザイン活動港屋と同時期、夢二の服飾デザイン活動に婦人之友社が果たした役割は大きい。『婦人之友』を創刊した羽仁もと子と吉一は、キリスト教的な自由主義思想に基づいて雑誌編集者として家庭生活の改善に取り組み、生活用品の取次や自社製作品を扱う買物部を設置した。夢二は詩人・河井酔茗の仲介で(注31)、大正3年4月に『子供之友』創刊号と翌月の『婦人之友』に挿絵を描き、翌年4月創刊の『新少女』で絵画主任になった。大正5年秋の京都移住まで熱心に取り組み、羽仁もと子にも才能を買われて家族ぐるみの親交を結んだ(注32)。『婦人之友』では大正4年1月から8月まで、服飾デザイン活動を確認できる。大正4年1月号は「手製半襟の図案」〔図4〕を附録とし、同社記者が本文で縫い方を紹介した。同6月号は「夢二氏図案中形の模様」12図を掲載し、翌号に「特製中形」〔図5〕として「この五種だけを、買物部で特に染めさせました。(中略)婦人之友社買物部販売」と制作販売を報じており、五種のうち四種は夢二の恋人を撮影した写真でも確認できる(注33)。大正4年6月16日、夢二は岡田三郎助夫人の八千代に「浴衣も五六種、きのふ出来上りました」(注34)と知らせ、6月22日の新聞は港屋で新柄浴衣の陳列開始を報じた(注35)。制作と販売時期の近さから、夢二らが述懐する港屋浴衣は買物部の浴衣と同一である可能性が高く、現に港屋千代紙が買物部で販売された例もある(注36)。一方、浴衣の販売開始を告げた大正4年7月号は麻秩父の帯に夢二図案の芭蕉の葉と水玉をあしらったステンシルの帯〔図6〕を、翌号も花模様の帯〔図7〕を買物部にて販売と報じた。これは同社の発案で、意匠を施すための生地として麻秩父を売り出す企画の一環であり、図案の依頼を受けた夢二は間もなく油絵具のステンシルで試作品を完成させたという(注37)。ここから、同社と夢二の良好な関係がうかがえる。また、『新少女』では大正4年5月から9月にかけて、その活動を確認できる。大正4年5月号に「少女用半襟の図案」〔図8〕、同6月号に「本ばさみの図案」、同7月号に「ステンシルにする帯の模様」〔図9〕、同9月号に「ぬひとり模様」を発表し、時にはその制作法も執筆した。これに対し、読者からは実際― 27 ―

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