見に行くためだ。あの(中略)彫刻家Niinoが750円で模造を作ると言ってきた観音だ。」とある。ここで翻刻が「Niino」としている人物はおそらく、明治34年(1901)頃から奈良を拠点として仏像修理を担っていた新納忠之介と思われる。6月2日の「ケルン日記」にこう書いている。「早朝7時に彫刻家のNiinoが訪れてきた。彼は興福寺の大きな太鼓(注:鼉太鼓か)を修理したり博物館での修理を受けたりしている人物だ。彼は賢いユダヤ人(原文:Jude)のようだ。彼は仕事(注:模造)を請け負うことに非常に高い関心をもっていると分かったが、私はあえて無関心を装った。明日、奈良に行くことを彼に約束した」。先の田中文弥との奈良行きの約束は同年6月7日の「ケルン日記」を読むかぎり果たしたようで、「この2人の作家と(奈良の)博物館内を見て回るのは、このうえなく素晴らしいことだった。彼らは、私が好まなかったもう一方の朝鮮の観音像は展示すべきでないということに賛同してくれた。奈良帝室博物館のアオキ博士に、法隆寺が模造制作を許可してくれるように依頼した。」とあり、田中文弥父子と仏像を博物館で見て意見を交わしながら模造製作を進め、博物館の人脈も駆使している様子が伝わってくる。この田中文弥については安藤勉氏によって調査がなされ、日本側の記録が提示されている(注12)。安藤氏が見出した田中(柴田)家の文書「(仮称)仏師田中文弥回顧録」によれば、フィッシャーの依頼によって田中文弥が製作した模造は、法隆寺金堂四天王像のうち持国天立像〔図3〕、同・増長天立像〔図4〕、興福寺北円堂無著立像(注13、〔図5-1、5-2〕)、同・世親立像、秋篠寺伎芸天立像(注14、〔図4〕)、妙法院二十八部衆立像のうち婆藪仙人立像〔図6〕、同・摩和羅女立像〔図7〕、同・迦楼羅立像〔図8〕、同・風神像(注15、〔図9〕)、同・雷神像〔図10〕、興福寺板彫十二神将像のうち迷企羅像〔図11〕があり、「奈良博物館陳列/俗に酒買観音という」「弥勒菩薩像」は一度「八月一日より大修繕」に入るため模造の許可が下りなかったものの、直前の「七月廿八日ひるまでに出来」した法隆寺の百済観音立像(注16、〔図4〕)であることが判明する(下線はベルリン民族学博物館の列品録に記載のあるもので、現存しないものも含む。枠囲みはケルン東洋美術館に現存するもの)。一方、ドイツ側の記録である「vol. 3」には1901年の来日時にミュラーが春日大社の鼉太鼓を奈良帝室博物館で目にして強い印象を受けたとある。同じく「vol. 3」には春日大社の鼉太鼓(左方)の模造とともに写る田中文弥の写真2枚(裏面に民族学博物館宛ての記述あり)があり〔図12〕、「ケルン日記vol. 27」の1905年9月17日にもフィッシャーがその出来映えに感銘を受けている記述がある。オリジナルの鼉太鼓には、明治38年(1905)7月の修理銘があり、岡倉天心を監督として新納忠之介が副監― 369 ―
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