見え、「フィッシャーは日本をたびたび訪れているので商人にだまされることなく、欧州で日本美術を手に入れようとするよりは、はるかに安い価格でこれらを購入できたといえる」として、経費面でもフィッシャーを評価している。ミュラーの評価はフィッシャーにも直接伝わっていたようで、「vol. 5」1907年9月30日付のミュラー宛の書簡によれば、「自分の模造収集の成果に納得いただけて嬉しい。(ミュラーの)依頼どおり、『國華』第1号に言及のあるアサンガ(無著)のレプリカを、三十三間堂の運慶作風天(ママ)のレプリカとともに最近、注文した。(中略)寺院や古美術商の蔵にはもはや購入に値する古い仏教美術の真作はなく、あっても大変高価であるため、慎重な検討の結果、残りの資金は古い時代の彫刻のレプリカに使うことにした。田中文弥とその息子ほど、精確で巧みに模造を作れる者はいない。(中略)各模造の製作には4ヶ月かかる。昨日、婆藪仙人立像が完成して梱包を終えた。本物と見分けがつかないほど精巧にできている。田中は目下、摩和羅女の模造〔図13〕にとりかかっていて、11月末には輸送できるだろう。婆藪仙人立像の模造にあたっては、なかなか許可がおりず、京都・奈良両博物館と奈良県の交渉と書類のやりとりが必要だったため製作が遅れた。(中略)生駒郡にある秋篠寺の寺務所が伎芸天の模造に対して許可を出したくなかったようだが、ドイツ製品の寄贈という条件で許可をもらえた。横浜から調達したドイツ製のテーブルクロスを贈り、落着した。」という、一連の模造にまつわる労苦を報告している。そうした労力や資金を費やしたにもかかわらず残念ながら、現在は失われている模造もある。ベルリン民族学博物館列品録に「27056 vajrapani original im Todaiji」「27057 garuda original im Todaiji」との記録があるもので、奈良・東大寺の伎楽面迦楼羅・金剛模造と考えられる。これらはフィッシャーによる発注ではなく、白井克也氏によれば明治38年(1905)7月に帝室博物館が模造伎楽面2面を奈良の餅飯殿町の柳生庄七より購入し、のち9月12日に庶務課が出土遺物の石斧とともにプロイセン王国博物館への寄贈を起案したものである(注17)。この2面の模造にフィッシャーは強い執着があったようで、「ケルン日記vol. 27」1905年9月9日には「上野の博物館に行き(中略)民族学博物館への贈物を確認し、この一覧を作成した。股野館長が昼食に招いてくれた。今泉と久保田(鼎)もいた。(中略)久保田は、過去に古い仮面の模造をくれると約束してくれたが、今はためらっているようで、意向が変わったと言ってきた。私は諦めず、再度要求し、ついに正倉院(ママ)の素晴らしい仮面の模造を2面受け取ることができた」と記録している。広隆寺の通称泣き弥勒像(明治35年(1902)刊『國華』141号「作者不詳如意輪観― 371 ―
元のページ ../index.html#382