鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴恵美千鶴子「明治宮殿常御殿襖画の考案─正倉院鴨毛屏風模造・平家納経模本の引用と山髙信音像(挿図解説)」に美術院修理前の写真掲載)も、フィッシャーの依頼で模造が作られたようだが現存していない。「ケルン日記vol. 25」1905年6月15日に「模造を依頼していた如意輪観音像は、木心乾漆造で頭部の髪には青い顔料が残っている。肩から下へ流れる衣(注:天衣遊離部)の先は、革でつくられているという。この模造は素晴らしい。オリジナルとの違いがわからない。突き出た上唇に特徴的な橋のような鼻。(中略)広隆寺(翻刻:Korinji)は真言派寺院のひとつで、聖徳太子が580年に創建。この寺院は、定朝様の仏像が多数あり(中略)私が模造を依頼した朝鮮様の如意輪観音もある。私は心ゆくまで依頼した模造と本物を見比べた。その出来に大変満足した。上唇と特徴的な橋のような形の鼻が本物と同じで申分ない。博物館の人が言っていたことは信用ならない。如意輪観音は木心乾漆ではなく、木造漆箔だ。衣も先端のごく一部が革であるだけだ。」という記述がみえる。田中家の記録「(仮称)仏師田中文弥回顧録」に、「難仏国宝如意観音腰掛之像摹/刻被仰付/明治四十二年七月中/太秦野村様ト参リ/其趣御達シニ相成レリ/和尚様曰 何分志ん登/総代ト相談シテ返事スト申/其アケノ日知事ヨリマネカレ/宮内署(ママ)ヨリ御■達シニ付不若写サ■ハ/命令ニ付写シ候也」とあるのがこれに該当するかと考えられる。以上、ベルリン民族学博物館とケルン東洋美術館に現存する彫刻模造に関しては結果的に田中文弥父子が手がけたものが残っていることが明らかとなった。いずれも、明治時代当時のオリジナルの状態を古色や損傷も含め忠実に写したものである。フィッシャーが自身のコレクションとして選んだ模造・模本は、1913年ドイツ初の東洋美術専門の施設として誕生したケルン東洋美術館の案内書に古典のレプリカ展示室に展示された。それは彼亡きあとも守られたようで、妻で次代館長となったフリーダの小論(1922年刊)に「最後の部屋には譲渡不能である日本国所有の古典作品の複製品が収められている。」(注18)とある。今回、ドイツでの模造・模本展示が東アジア美術研究や公衆へ及ぼした影響は解明できなかったが、民族学博物館において東洋美術史を見せる構想をもったミュラーと、自身のコレクションを以って欧州初の東洋美術館を設立し、西洋に引けを取らない美術品として展示する使命感を抱いたフィッシャー両者にとって、復原でない「現状」の模造・模本は当時の欧州においてオリジナルに相当する価値を有していたといえる。― 372 ―離―」『MUSEUM』617号、東京国立博物館、2008年、pp. 37-86

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