3《合作帯》《合作帯》は、彦乃の生母ソウが織った甲斐絹の帯地に夢二と彦乃が直接図を描いたという半幅帯である。前述の帯《いちご》も、裏面に似た筆致で草花が描かれている〔図12〕。いずれも彦乃の遺品であり、これらを締めた彦乃の写真が残されている〔図13、14〕(注43)。港屋近くに住んだ彦乃は開店後間もなく店に通い、夢二に絵の指導を受けながら親密度を増した。大正4年5月より本格的に交際を開始し、大正6年6月からは女流画家を目指しながら京都で夢二と同棲している。この間、彦乃は夢二の芸術活動の原動力であった(注44)。夢二は京都移住後も半襟や浴衣デザインをに半襟を刺繍したと反響もあった(注38)。ステンシルの帯について、夢二は『新少女』で「絵具は油絵具でも水彩の絵具でもよろしい。(中略)帯の地質は夏物ですから、けんちうとか麻とかいつたものが好いでせう。秋口になれば黒い繻子へ油絵具でかいた帯は好いものです」(注39)と述べた。港屋製とみられる帯《いちご》は、規則的なパターンと均一な筆致からステンシルと考えられ、買物部の帯と同じ技法だと推測できる。大正4年9月刊行の夢二著『三味線草』には、この頃販売した浴衣や帯と同柄の衣装をまとう女性像が散見され〔図10、11〕、類似デザインは肉筆美人画、装幀、雑誌表紙などに及んだ。同一イメージを様々な媒体に展開させた夢二の芸術観について、以下に述べたい。大正3年末に夢二を取材した『みづゑ』の記者は、港屋を「緑色の羅紗紙で天井や壁を蔽うた店頭」とレポートした。その際夢二は「水彩画を描くにも油画を描くにも舞台の背景を描くにも店を飾り付けるにも皆私はある芸術的衝動に駆られて行ふので頭の働き方は何時も同じなのであります」(注40)と語ったという。また『新少女』に寄せた室内装飾の記事で、「出来得るなら、壁の色も花瓶の色も、すべて緑色にしたいものです。緑色は清新で純潔で、高尚な、そして静かな色ですから、あなた方は、丁度緑の森の中にゐる心地で、本を読んだり、考へたり、手紙を書いたりすることが出来ます」(注41)と述べる。夢二は生活空間に対する美意識を港屋の店内装飾で実践し、少女にも推奨した。さらに、手提げ袋の図案では、使用場面を想定しながら制作方法を示し、使用イメージも描いている(注42)。夢二の才能を評価した婦人之友社は、大正4年6月から9月にかけて、彼のデザインによる服飾品の制作販売を行い、同社の社風に触れた夢二も自身の美意識に基づいて少女の美的生活の改善に取り組んだ。服飾デザインのイメージは、挿絵などにも展開し、空想と現実を越境するものであった。― 28 ―
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