継続したそうだが(注45)、婦人之友社の誌上にみる服飾デザイン活動が収束した大正4年秋以降、全貌が掴めない。その展開を追う僅かな手がかりは、日記や書簡における彦乃に関する記述に見ることができる。京都移住前の大正5年1月、夢二は日記に「あのひとのためにあのひとの帯を刺したいとおもつてやつてみたがだめだつた。(中略)あのひとといつしよにどこかへ行ける時にしめてゆく帯やキモノやその他のものを私の手で作りたい」(注46)と、対象を彦乃に限定した創作願望を記している。移住後の大正6年4月、彦乃宛の書簡に「やまにはあんなのが好いかこんなのもきせたい(中略)随分空想はぜいたくで僕の考へてゐるやうな色彩と地質と図按とを持つたキモノや持物をこさえたらおそらく日本で誰も及ばないすばらしい高貴なものだなと考へて意気こう然」(注47)と書き、創作意欲が再熱している。この2ヶ月後に彦乃が上洛し、その頃《合作帯》が制作されたという(注48)。夢二の描画は、プラタナス、桜、つりがね草、どくだみ、さくら草であろう。港屋近くにあったプラタナスは、ふたりの思い出を象徴するものとされる(注49)。彦乃の描画も夢二風の草花である。この他、帯の内側から夢二の筆蹟によるローマ字が発見された。判読できる文字を拾うと「HARU/NAREBA/HONOKANI/HANAMO/SAKI/TURAM/SOYORATO/ITOMO/O/TOKUM」となる。夢二著『三味線草』(大正4年9月)挿絵で明らかに彦乃をモデルとした丸顔の女性像〔図15〕は、プラタナス模様にローマ字で「SOYORA」「NO」「HITO」と読める帯を締めている。短歌では、夢二著『小夜曲』(同年12月)「港屋風景」の「春なればほのかに花も咲きつらむそよらと人の帯やとくらむ」が最も近い作例である(注50)。また、彦乃に捧げた歌集『山へよする』(大正8年2月)の「果実篇」に「ゆく春のけぬがにも花のちりしきてそよらと紅の帯やときけむ」という歌が収められている。プラタナスとローマ字の短歌、彦乃に寄せた恋の歌に共通する「春」「花」「そよら」「帯」などの単語は《合作帯》と密接に関係する抒情的なモティーフと言える。大正5年1月以降、恋人の彦乃を自らの手で着飾りたいという個人的な制作欲求が兆し、夢二の服飾デザインに新たな展開がみられた。彦乃に理想の女性像を重ねた夢二は、絵筆で抒情的なモティーフを描き《合作帯》を完成させた。おわりに夢二の服飾デザイン活動は、美術界に興っていた「小美術」の動向から影響を受けて展開した積極的な芸術行為であった。港屋開店の大正3年秋から翌年秋までは、社会一般を対象としてミシンや捺染、ステンシルなどの諸技術を用いた販売目的の商品― 29 ―
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