鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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㊱ ギュスターヴ・モロー周辺に形成された文化的コミュニティーに関する研究─ギュスターヴ・モローと美術批評家アメデー・カンタルーブとの交流を中心に─・はじめに・アメデー・カンタルーブ─その趣味について研 究 者:宇都宮美術館 学芸員  藤 原   啓19世紀フランスの美術批評家アメデー・カンタルーブ(1826-1883)。今日ではその名前すら知られていないこの人物について、もし何らかのイメージを抱くことのできる人がいたならば、そのイメージとは「芸術の近代化の前に立ちふさがる保守的なアカデミスムの刺客」、あるいは「古臭いポンピエの画家たちを擁護し、芸術におけるモデルニテを理解できなかった凡庸な批評家」といったものではないだろうか。彼がその名をフランス美術史上に刻んだ唯一の出来事、それは近代美術の開拓者エドゥアール・マネの歴史的名作《オランピア》〔図1〕に対して「はち切れそうな革袋」「メスのゴリラのようなやつ」といった辛辣な言葉を浴びせたことに他ならない(注1)。ただし、彼には未だ知られていない一面がある。彼は画家ギュスターヴ・モロー(1826-1898)の親しい友人であり、擁護者であった。彼らはラ・ロシュフーコー街にあるモローの自宅兼アトリエで顔を合わせては芸術について語らい、ときには共に遊びに出かける仲であった。カンタルーブは自らの趣味と知性がモローのおかげで得られたものであると言ってはばからず、同年齢のこの画家に教えを求めていた。本稿では、カンタルーブとモローの関係性に着目し、モローが1860年代にサロンで評価を獲得していく際にカンタルーブの批評が果たした役割を明らかにする。また、偉大なる趣味による芸術を作り出すことを目指していたモローが、後に象徴性の高い幻想的な絵画を生み出すに至る、その展開における最初の段階にカンタルーブがかかわっていたことを明らかにする。詩人アルマン・シルヴェストルは『おもかげとおもいで 1886-1891』の中で、美術批評家アメデー・カンタルーブについて以下のように述懐する。私の最初の助言者のうちのもうひとりは、私よりも若いというのに数年前にすでに亡くなっている。美術批評界に残るあるひとつの名が不当にも忘れられようとしているのを、私は見ていられない。アメデー・カンタルーブ、(中略)彼は洗練された教養ある人でもあった。カンタルーブは画家たちの世界に生きており、― 389 ―

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