私もそこに足繁く通った(注2)。シルヴェストルが回想するように、カンタルーブは芸術家たちとの深いかかわりの中に生きていた。中でも彼と特に親しい友人関係にあったのがギュスターヴ・モローであった(注3)。彼らは遅くとも、モローがイタリア旅行へ出発する1857年以前からの友人である。カンタルーブはモローの自宅兼アトリエに出入りし、そこでモローや友人たちと交流し、芸術に関する議論を交わした。モローの両親とも親密だったようで、モローに宛てた手紙ではしばしば彼らに言及している。カンタルーブはモローに対して厚い友情と強い尊敬を抱いていた。モローとのおしゃべりが「美術の探求への手ほどき」であり、「今の僕の趣味や僕の知性による判断力の多くは君のおかげだ」と述べる(注4)。では、その「美術の探求への手ほどき」とは具体的にどのようなものだったのか。「叙事詩のような芸術(art épique)を生み出したいんだ」と言って1849年に美術学校を離れたモローは、1850年から1853年ごろまでテオドール・シャセリオーのアトリエ近くにアトリエを構え、シャセリオーやドラクロワの影響の強い作品を制作していた。ところが、サロンに出品した際に「ドラクロワの模倣者」として批判されると、新たな画風を模索し始める。ラ・ロシュフーコー街の自宅兼アトリエに戻ったモローは、父ルイ・モローの趣味を反映するかのように、ニコラ・プッサンやジャック=ルイ・ダヴィッドなどに学んだ作品を制作した。さらに、ルイ・モローから息子への影響は芸術そのものについての考えにまで及ぶ。ルイ・モローは、芸術とは道徳や偉大な趣味を人々に広めるためのものであると考えていた。ギュスターヴ・モローは父の教育によって身につけた文学的な素養を活かし、大芸術としてふさわしい歴史画を描こうとしていたのだ(注5)。モローとカンタルーブの交流が始まった、あるいは深まったのは、1853年にモローが自宅兼アトリエに戻ってから1857年にイタリア旅行に出発するまでの、まさにこの時期であった。したがって、彼にはこの頃のモローの趣味や芸術についての考えが受け継がれたのではないかと考えられる。カンタルーブは1860年の『ガゼット・デ・ボザール』誌の記事「ルイ・ダヴィッドの素描」の中で、ダヴィッドを美や真実の探求者とし、プッサン以来の伝統の継承者と位置付けて称賛している(注6)。モローとカンタルーブの共通の親しい友人アレクサンドル・デトゥシュによれば、モローとの会話をきっかけにカンタルーブはダヴィッドに夢中になっていたという(注7)。彼がダヴィッドを好むようになった背― 390 ―
元のページ ../index.html#401