鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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れていたが(注12)、カンタルーブは本作が模倣によるものではないことを強調する。過去のモローのサロン挑戦が「ドラクロワの模倣者」という評価により失敗に終わった後、画家が2年間のイタリア旅行を含む10年もの修業によって独自の様式の獲得を目指していたことを知っていたため、カンタルーブは「模倣者」という批判からの擁護に力を注いだものと考えられる。続いて、彼は以下のように語る。この画家が扱う主題は最初の印象から直ちに理解することができ、鮮烈に心に響く。なぜなら、表現された概念というのは文学的なものではなく造形的なものだからである(注13)。マイケル・フリードは、サロンにおいて本作がマネの《死せるキリストと天使たち》と同室に展示されたことを指摘し、仕上げが不完全で主題についてもあいまいな印象を与えるマネの作品と対比しながら、あいまいさを残さずに主題を理解させようとする制作者モローの「意志」を指摘するものとしてカンタルーブのこの言葉を引き合いに出す(注14)。しかしながら、モローの《オイディプスとスフィンクス》は実際のところ、あいまいさのない、「直ちに理解」されうるような作品であろうか。美しくも恐ろしい怪物と青年との運命的な出会い。ただならぬ雰囲気に包まれた2人の周りに、死体を思わせる手足や宝冠、蛇の巻き付いた円柱とその上に乗る壺など、謎に満ちたモティーフの数々が配される。たしかに、諸々の要素の結びつきは制作者の知性を感じさせる。しかしながら、その知性はひとつの答えを明快に提示するものではなく、作品に奥行きを与え、その謎に満ちた魅力の中へと鑑賞者を誘うものであるように思われる(注15)。カンタルーブ自身が述べるように、「謎が彼らを包み込み、魂は不確実さへと委ねられる(注16)」のである。したがって、カンタルーブの上記の言葉をフリードのように字義通りに解釈すると、それは作品そのものの印象から乖離したものであるように思われる。では、カンタルーブの記述の意図はどこにあるのだろうか。「造形的な概念(idée plastique)」という言葉をカンタルーブは過去にも用いている。上述の『1861年の諸展覧会とサロンについての手紙』の中で、彼は以下のように述べる。― 392 ―

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