レアリストと呼ばれる奴らには叫ばせておけばよい。調和の感覚と形態の創意において造形的な概念(idée plastique)を最も素晴らしく表現している驚くべき芸術を嘲笑するほど、彼らは愚かなのだ(注17)。また、画家であり文筆家であったウジェーヌ・フロマンタンについての以下の記述は、カンタルーブが散文と絵画というふたつの分野の隔たりを強く意識していたことを思わせる。彼が手にするとペンはもはや造形のための道具(un instrument plastique)のようになる。もっとも、この芸術家はそれぞれの芸術がその境界を超えることはないとわかっていたが(注18)。したがって、カンタルーブは造形的な概念を文学的な概念と対立するものとして捉え(注19)、絵画をはじめとする造形芸術においては形態の美しさや調和という造形的な概念を表現することが重要であると考えていたと思われる。それを見事に表現した古代彫刻やダヴィッド、アングルらを称え、それに反するレアリスムの作家たちを批判する。同著においてミレーに向けた批判は、「絵画においては、見事な文学的な概念を伝えるために造形的な概念を犠牲にしてはならない」と読み替えることができよう。カンタルーブは別の箇所においてもこの言葉を用いる。前述のダルジャンの《夜の洗濯女たち》については、モティーフの形態が「造形的な概念の領域」に由来するものであると述べ、ブーランジェの《サバトのロンド》に関しては「ラブレーの空想世界はもはやこれとは全く異なる次元のものであり、むしろ造形上の主題(un sujet plastique)が示す構想に反するものに思える」とし、本作を文学的と捉える主張を退ける(注20)。ダルジャンやブーランジェの作品、そしてモローの《オイディプスとスフィンクス》は、幻想的な雰囲気や象徴的な表現によって、直接的に描かれていないものを暗示させるような力を持つ作品である。カンタルーブは、これらの特徴が「あいまいさ」として捉えられ、批判されることを予想し、これらを擁護するためにこの言葉を用いたのではないだろうか(注21)。カンタルーブは、「造形的な概念」という独特のレトリックを用いてモロー作品を擁護しつつ、謎や不明瞭さに包まれた雰囲気について、「そこにこそ、叙事詩のような芸術(lʼart épique)の特徴が表れているのだ」と述べる。モローが美術学校をやめ― 393 ―
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