鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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・1865年以降の展開る際に口にし、目標としていた芸術の形、そのひとつの完成をカンタルーブは本作に見ていたのである。1864年以降、カンタルーブは毎年サロン評執筆の仕事を得る。モローが《イアソン》〔図11〕と《若者と死》をサロンに出品した1865年、カンタルーブは『グラン・ジュルナル』誌にサロン評を寄稿する。掲載されたモロー作品に対するカンタルーブの批評は、前年のサロンでのモローへの評価とは著しく異なるものだった(注22)。彼はモローを「もはやある種の体系的な剽窃者、つまり虚しい模倣画の制作者にしか見えない」と断罪する。ただし、その記事は非難一色だったわけではない。《イアソン》について「これは、シャラードなのか、拙さを感じさせる模倣画なのか」、「造形的ではなく文学的な概念なのか」という問いに対する明確な否定は控えながらも、その色彩とデッサンが「叙事詩のような芸術の、謎に満ちた様式と領域」へと彼を至らしめていると称賛する。彼は前年のサロンでの批評と同じ語彙を用いながらモローを批評しているが、それはどこかちぐはぐな印象を与える(注23)。記事の出る2日前の同月12日付のカンタルーブからモローへの手紙には、この記事への言及と思われる記述が見られる。カンタルーブはエルネスト・シェノーによるモローへの好意的な批評記事について言及したのち、こう述べる。僕のは土曜日に通るよ。大したものにはならないだろうけど。とにかく君にはラフィット街5番のアルベリック・スゴンにはがきを送ってほしいんだ。これは僕のためにじゃない。理髪師の説明を鵜呑みにしてしまったけども、彼は実際のところお人好しなだけなんだよ(注24)。これに先立つ5月2日の手紙の末尾で、カンタルーブはモローに「君はアルベリック・スゴンをひどい目つきで見てたんだってね(理髪店で)。今朝彼が言っていたよ」と述べ、また、同月23日付の手紙では「アルベリック氏に好意的にふるまってくれて本当にありがとう」としている(注25)。アルベリック・スゴンは『グラン・ジュルナル』誌の創設者であり、編集長でもあった。カンタルーブの手紙にはモローとスゴンとの穏やかでない関係と、どちらとも良好な関係を保ちたいカンタルーブの微妙な立ち位置が表れている。同誌に掲載されたモローに対するカンタルーブの批評もそうした人間関係が反映されたものだったのではないだろうか。― 394 ―

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