翌1866年のサロンでもカンタルーブはモローに対して不可解な態度をとる。『ジュルナル・ポリティーク』誌に5月21日に掲載されたサロン評において、カンタルーブはモローの《オルフェウス》〔図12〕を「あらゆる造形的な概念のうち最も美しい」と称えている(注26)。にもかかわらず、翌6月5日付のモロー宛の手紙では彼の作品をほめつつも、「僕は君の名を記すことなくサロンを終えようとしている。何百回となくその名を口にしているというのに」と述べ、記事のことをなぜかモローに隠している様子が窺える(注27)。・おわりに続く1867年、1868年にはモローはサロンには出品していないが、彼の友人のフレデリック・ド・クルシーがモローの作品に基づくエマイユを出品している。カンタルーブは1867年に『ルヴュ・リベラル』誌のサロン批評記事の中でモローの水彩画《狩り》に基づいて制作されたド・クルシーの作品を取りあげ、ド・クルシーよりもむしろモローを称え、ド・クルシーの作品の中に「大芸術(grand art)」の存在を見出す(注28)。1864年以降、美術批評家としての立場を固めるにつれ、カンタルーブの記事の内容は彼個人の見解のみを表すと考えることが難しいものとなっている。しかし、複雑な関係の中に身を置きながらも、彼がモローの作品に見られる「造形的な概念」の美しい表現を称え、モローを応援しようとしていたことが窺える。カンタルーブは大芸術としてのフランス絵画の伝統が失われつつある時代において、ギュスターヴ・モローの「叙事詩のような芸術」がその伝統を継承するものであるとして称賛を贈った。その謎めいた幻想的な雰囲気や何かを暗示するかのような表現に惹かれ、そうした「あいまいさ」や「文学的な」表現に対する批判から彼を擁護する言葉を発信していた。一方で、クールベやマネをはじめとする新時代の芸術に対しては抵抗の姿勢を崩さない。伝統の力にとらわれ続けたこの批評家の言葉の数々は、筆の力によって新時代を切り開く美術批評家としての先見の明を欠いた、ある種の凡庸さを露呈していると言えるかもしれない。しかしながら、モダニズムに抗うかのようなその姿勢(注29)が、逆説的にもフランス美術史のひとつの展開を予見することになる。カンタルーブは1868年のサロンについての批評記事の中で以下のように述べる。高邁な目標を持ち、普遍的な観念と結びつき、単なる模倣にとどまらない芸術。(中略)その偉大なる芸術は失われようとしている。(中略)ナチュラリストたち― 395 ―
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